bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

白川道の小説

 年に一度は白川道を読みたくなる。
それは場末の酒場で無性に安酒をガブ飲みしたくなる気分に似ている。
雨上がりの夕暮れ時、盛り場の雑踏から逃れるように飛び込んだ裏路地の見知らぬ居酒屋。日陰の喜怒哀楽が焦げ付いた温風がエアコン代わりの換気扇に乗って火照った頬に吹き付ける。なぜか懐かしさに救われたように感ずる伏水の流れにも似た安らぎ。
病葉流れて」シリーズは日本の現代版Bildungsromanともいうべき青春小説である。
賭け事に天腑の才を持つ青年の無頼な生きざまと精神の成長過程を描く筆致はあいかわらず健在。主人公は著者自身がモデル、ナルシストが自己否定のポーズを取りつつ恥らいながらも奔放に展開していくストーリー。それは昭和の青春の光と影を哀切を帯びた色調で彩り甘く哀しい。

このシリーズに限らず、いつもながら巻末で涙腺を刺激する白川の手腕はそれと知りつつ納得して思ひきり乗せられたい。

定年延長は望ましいことなのか


給与「60歳の崖」緩く 定年延長、人手確保へ8割維持。


今朝の日経新聞は、定年を延長してさらに給与の減額を緩やかにする企業が増加していると報じています。このような動きの底流に国家社会主義の影を感じつつ政府の意向を極度に忖度してはいないか、長期的視点から生産性の劣化に陥らないか、若年勤務者の意欲を削がないかなど気になるところ多少です。

それよりも問題は日本社会の風潮として、ヒトを人間としてではなく労働力としてとらえる見方が蔓延しているように思えることです。所詮は使い捨ての労働力補給に過ぎぬのに耳障りの良いヒューマニステイックな語感の定年延長と言い換える。それは不遇にも少子高齢化と経済格差の板挟みに遭遇したと悲嘆する社会に対して国家ぐるみで定年延長というマヤカシで情緒的に大衆迎合している気がしてなりません。
戦後民主主義が立脚してきたヒューマニズムは日本の民衆を健全に育んできました。しかしヒューマニズムはいつの間にかその重心が心から肉体に移動してひたすら身の安全無事(それを担保し保証するカネ)を主張するようになってしまったのではないでしょうか。
労働人口の減少、社会保障制度の破綻など周囲環境の悪化により企業も労働者も身の安全が当面の重要課題であることは理解できるところです。
しかし定年延長という受動的なオプティミズムに身を委ね「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れ」て身の垢のしみついた同一組織で人間らしく生きられるものでしょうか。もちろん、なかには企業から切望され心身ともに充実して再出発する器量のある人もいるでしょう。

 

組織に生きる人間に重要なことは「出処進退」をわきまえることです。

「進」を自ら決めることはできませんが、「退」は自ら決断できます。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言われるように人間はペシミスティックな能動性を梃にして局面を変え飛躍的に向上する能力を有しています。

受け身のオプティミズム対米追従の政治家に任せて、定年を機に心と身のあり方とそのバランスを見直してみることが大切ではないでしょうか。





『日本人の「戦争」』



日本人の精神構造からあの戦争とはなんだったのかを抉る。その論考は哲学的深淵に至る名著。

楠正成、織田信長の戦から明治へと身分差別を打破して国民の時代を築いた日本。
日清・日露は「国民の戦争」を戦うことができた日本。

しかし文明開化は欧米人でもないのにひたすら欧米人であるかのごとく振る舞う欧化主義者の拡大を招き、昭和に入ると財閥を先頭に政治家、官僚のなかに英米派と呼ばれる勢力が伸長。彼らは労働者の失業、農民の飢餓をよそ目に濡れ手で粟の巨利を得て金権政治に奔走。

やがて大部分の人にとって大日本帝国とは空虚な抽象となり結果、国民の戦争ではなくなった日中戦争。その戦局は硬直化、国内では貧富の差が拡大し多くの国民は窮乏の奈落へ。

充満する国民の不満エネルギーを外に向けるべく指導者層は革命よりましだとあの戦争をそして敗戦を選択した。

英米化とは抽象化(タテマエ)であり日本古来の哀歓やら共感という実感化(ホンネ)との距離縮小と同一化作業、それは鹿鳴館で始まり日露戦争で終わったのか。

やがて抽象の魅了が与える金銭・主義・制度に翻弄されタテマエとホンネを乖離させ自ら自己分裂した近代日本人。
その行き着く先は祖国をこのような空虚な抽象としてしまった自らとも自らの敵とも戦わねばならぬ必敗の戦争だった。こう解しなければ特攻、玉砕は説明がつかないと著者はいう。

それにしてもあの戦争の真の責任者は誰なのか、タテマエという精神の官僚化にさらに腐食されたこの国。あの戦争の総括は未だ終わらない。

『緩慢の発見』シュテン・ナドルニー 著

ドイツ文学の新たな古典と評価される一冊。
なんとも不思議な小説。19世紀北極圏で全滅したフランクリン隊は冒険史上有名な逸話らしい。その隊長であった探検家ジョン・フランクリンの生涯を描いた小説。幼いころから海を夢見ていたが、生まれつき話すのも動くのものろく、ボール遊びの輪にも入れない。唯一、教師のオームだけが彼に潜む長所に気づく。理解するのは遅くても、一度覚えたことは決して忘れず、他の子供たちよりも深い洞察を得るのだ。教師の推薦で親を説得し10代前半で海軍に入ったジョンはトラファルガー海戦を含む幾多の戦役を経てオーストラリア探検、タスマニア総督そして北西航路発見、北極圏遠征とひと時も休息のない冒険活動を展開する。これは本来なら勇猛果敢で血沸き肉躍るお話。しかし著者は生まれながらに緩慢な主人公の思考過程とその結果到達した結論、行動を精細に描き切る。その行動が予期せぬ結果を生み出していく。主人公の緩慢さを嘲笑したジョンの関係者はジョンへの否定から是認そして賛美へと変化して行く。迅速さにしか優位性を誇示できぬ幾多の点が緩慢な回帰曲線へ、動をテーマに静に収斂していく悠久の幾何学絵巻である。判断と行動の迅速さは必ずしも思考の高品質化ではない。近ごろの高速情報ITネット文化を考えると身につまされる。30年前のベストセラー今ではドイツ現代文学の名作と納得。

『大格差』

 

原題「AVERAGE IS OVER」

資本主義の行き着く先は超実力社会、少数の大いなる勝者とその他大勢の敗者となり中間層の減少は必然だという。

その根拠はコンピューターに象徴される機械の知能の驚異的で迅速な発展である。いまやアメリカの知的エリートが目指すのは金融・法律・コンサルティングでありそれは富の集約地でもある。

なぜか?
賢い機械と協働して付加価値(富)を生み出せるのは最高教育を受けSTEM(Science Technology Engineering Mathematics)能力を有した者だけだから。

この枠からはみ出た大多数は賢い機械に使われるか仕事を奪われ賃金低下、失職。生産効率向上に反比例して実質賃金も失業率も悪化。

政治は極めて少数の超富裕者と人口の25%に届く高齢者層に迎合し貧富の差は拡大。公共サービスの質は低いが住宅コストの安い地域に多くの人が移り住みやがてアメリカは国全体がテキサスのような場所になる。

機械との競争ではなく協働できる能力を身に着けないと・・・。

『「持たざる国」への道 - 「あの戦争」と大日本帝国の破綻』

あの戦争はー英米ブロック経済により困窮化した「持たざる国」日本が追い込まれた結果だーという国家の欺瞞に挑戦した元大蔵省官僚の一撃。

「当時の日本の勢いというものは産業も着々と興り貿易では世界を圧倒する。英国をはじめ合衆国ですら悲鳴を上げている・・・だから今、下手に戦など始めてはいかぬ」というかっての陸軍大将、宇垣一成二・二六事件当時を振り返った戦後の感慨。事実、二・二六事件の翌年には植民地向け輸出額は英国を抜き去り世界最大の植民地帝国になっていたのだ。

したがい日本が突然「持たざる国」となったわけではない。経済原理を理解しない軍部の満州経営や華北経営が国富の流失を招き国際的孤立の中で自らジリ貧に追い込み結果「持たざる国」となり果てたのである。
軍事的敗北論とは一線を画した金融・財政戦略の敗北の本質を紐解き、いまだに語リ継がれるあの戦争神話の欺瞞を暴く力作。

巻末の加藤陽子の次解説は秀逸。
国民は国家の欺瞞に上手く乗せられ、国家もまたその理性を国民輿論の暴走の前に封印せざるを得なくなる事態が発生していた。

理解されやすいが欺瞞的な説明と理解され難いが構造的な真因の相克、今も変わらぬその情緒的処置はこの国の美徳かそれとも唾棄すべき国民性か。

俳優ー松方弘樹

「おやじさん、云うとってあげるが、あんたは初めから、わしらが担いでる神輿じゃないの。
組がここまでなるのに、誰が血流しとるんや。
神輿が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみないや、のう!」
仁義なき戦い」第一作。松方演じる坂井鉄也が金子信雄演じる組長山守に反逆の狼煙を上げた名セリフです。

昭和40年代の日本、東京オリンピックに始まった好景気の波にたまたま乗った多くの企業には要領が良いけど無気力で無能な上司が掃いて捨てるほどおりました。団塊の世代はこんな経営層を支え汗と涙を流し働いたのでした。全学連の闘士ともども場末の映画館で安酒に溺れながらこのセリフに涙して喝采を送ったものです。

松方弘樹深作欣二の手にかかると生き返り名優になります。なかでも「恐喝こそ我が人生」と「北陸代理戦争」は傑作ですね。