bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

黄昏ゆくリベラル

最近リベラルなる言葉が聞かれなくなった。そこでそもそもリベラリズムとは何かを考えてみた。どうやらその概念の中核となるのは自由、個性、社会性、公共利益、進歩、合理性だと思われる。このうち自由と進歩そして合理性を強調するのが世紀末から隆盛を極めるニューリベラリズムいわゆる新自由主義といわれるものであろう。

このニューリベラリズムに一国の政治と市場を売り渡してきたのがアベノミクスだ。デフレ脱却と経済成長をめざしたアベノミクスは、低金利と円安という国家威信(社会性と公共利益)のシンボルたる自国通貨を叩き売るという戦略を合理的な進歩と成長への道だとした。そして為政者はその職を辞するにあたり株高と雇用増大という大きな成果をもたらしたと自負したがデフレ脱却と経済成長という目標を果たすことができなかった。

株高を享受したのは株式に投資のできる富裕層であり、雇用増大は余剰社員を抱える大企業が正規社員の雇止めと削減をおこない低賃金の非正規雇用者に入れ替え非正規雇用の比率を増やした結果であろう。したがい雇用者数は増加したが総人件費は逆に低減した。アベノミクスの恩恵を受けたのは富裕層と人件費を削減でき余得を得た大企業だった。社会構成員の全員が対象となる自由や進歩ではなく持てる者のみが謳歌できるのがニューリベラリズムの自由であり進歩であるゆえアベノミクスのもたらした成果は当然の帰結であろう。

 

いっぽう時代錯誤の経済認識にとらわれた為政者は、大企業など持てる者への優遇税制を図りその埋め合わせ策として消費増税など弱肉強食の社会的弱者を対象にした収奪策を繰り出し貧困層を増大、持てる者と持たざる者の経済格差を拡大してきた。さらに偏狭な価値観を持つ為政者はアベノマスク、モリカケやサクラを観る会など公私混同した児戯的パーフォーマンスに欣喜雀躍し行政、司法の忖度と盲従を要請してきた。このようにして国家、国民の社会性や公共利益は大きく棄損されてしまった。

このような腐敗した政府に異議申し立てをした財務局職員が諫死した。諫死とは、自殺と異なり社会性と公共利益性をもつ個性から共同性への訴求行為である。その妻は夫の諫死を財務局の内部調査で幕引きされたため国と当時の理財局長に対して損害賠償を求める訴訟を起こした。ところが多くの国民の予想に反し国は損害賠償金の支払いを行うとし不意打ちで訴訟を終わらせた。公文書改ざんの責任者は白昼堂々と闇に消えたのである。岸田首相は職員の妻に実態究明を約したが、訴訟終了で決着済みと弁明した。これが法治国家を自認する日本の実態である。いまや持たざる者の辞書には自由も進歩もなくなった国、社会性(社会正義)にも公共利益にも重きを置かない日本なのである。

リベラルな理性を蔑視する風潮が日本社会に蔓延するのは止むをえまい。