bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

七世紀にあった日中戦争

7世紀の日本には大きな出来事がありました。それは中大兄皇子などを中心とした宮廷勢力が豪族の長であった蘇我氏を滅ぼし大化改新を行ったことです。巷間言われるように、中大兄皇子蘇我氏を滅ぼさなければならなかったのは単なる権力争いではありませんでした。

大化改新がなされたまさに645年、唐の太宗は10万人の大軍で高句麗に攻め込見ました。倭国高句麗百済と親交があり高句麗の次に唐が攻め込んでくるのは倭国ではとの恐怖に駆られました。当時の倭国は、それぞれの地域で豪族が乱立した状態であり対外的にとても結束などできる状態ではありませんでした。唐からの攻撃が予想される中で倭国としては国内の権力を天皇のもとに集中して対外的に備える必要が出てきました。そこで天皇のもと統一国家を確立すべく中大兄皇子(後の天智天皇)は蘇我氏を打倒して大化改新を行ったのです。そして国の存亡をかけて倭国は唐・新羅連合軍に戦いを挑みました。しかし663年白村江の戦いで大敗を喫しました。そこで今度は唐と新羅は日本の海岸に現れるだろうと、倭国対馬壱岐島に防衛施設を作り太宰府に水城を築きました。ところが676年になると朝鮮半島新羅により統一されてしまいました。

ここで倭国は一気に方向転換をするのです。
(以下は、加藤陽子さんの「戦争まで」朝日出版社からの抜粋引用です)
なんと敵国の唐に対し32年ぶりに遣唐使を再開したのです。702年唐に派遣された遣唐使粟田真人は唐の則天武后に向かい、今回私が唐にやってきたのは倭国の使いではなく日本と言う新しい国の使いとしてきました、と説明しました。則天武后は粟田を気に入り倭国から日本国への国号を変更を認めます。
絶体絶命の危機にあって、国内的には大宝律令と言う新しい法令を整備し、対外的には新しい国=日本を建国したと言って、かっての敵国と外交関係を再開、従来の敵対関係をゼロにすることを日本の古代国家はやり遂げたのです。唐に向かって日本と言う国はこのような国であると説明するための本が日本書紀と言う国家編纂による最初の歴史書だったのです。(引用終わり)


今の日本にもこんなことができれば良いのですが。世界の政治力学において、日本が米国の従属変数たる状況を脱することは難しく、対外的な行動を被動者としての地位でしか取り得ない哀しい国家の現状は実に嘆かわしいことだと思います。