bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

ルネッサンス2.0へ。

英国の国民投票EU離脱が決定してから一年が経過しました。しばらくは政治と経済の動揺がしばらく続くでしょう。しかしこの問題の本質は政治経済問題ではなく文化問題にあると考えます。これをからはフランスはじめ欧州各国では自国文化と歴史の再評価の動きが胎動しはじめてやがては民族国家としての情念復興運動に到るのではないかと思います。

20世紀末からの産学トレンドであるモノからコトへの変化とは経済(ロゴス)から文化(パトス)への価値転換であり、今回の英国のEU離脱はまさにEU残留という経済的メリットより大英帝国の文化と誇りある民族の情念の方がより価値あるものとして英国民が決断した結果と言えましょう。
人はパンのみにて生くるにあらず…人が人たる所以です。
ルネッサンスローマ帝国の土壌から誕生したように今度は大英帝国から情念の復興運動とでもいうべきルネッサンス2.0がミュトス欧州において開花する予感がします。

「沖縄慰霊の日」


 今日は72年前の昭和20年6日23日、沖縄戦終結した日です。


沖縄戦の戦死者は20万人そのうち半数の9万4千人が婦女子を含む民間人でした。


敗戦から27年の長きにわたり沖縄はアメリカの施政権下に置かれ昭和47年にようやく日本に復帰しました。

しかし、いまだ日本全土の0.6%に過ぎぬ沖縄の土地に在日米軍基地の70%が配置されています。

沖縄を見捨てたこの国の指導者らは一億火の玉と国民を叱咤しながら自らは決戦に身を晒すことも玉砕するこもとなく

無条件降伏してしまいました。

本土決戦を決行し無残にも玉砕し果てたのは一億国民のなかで沖縄県民のみでした。

玉砕前夜の昭和20年6月6日夜、沖縄の海軍陸戦隊司令官大田実少将は、

沖縄県民の悲惨な奮闘を讃え海軍次官あてに次のように打電しました。

のちに「沖縄県民かく戦えり」と呼ばれたものです。

この電文の最後には「沖縄県民に対して後世特別のご高配」を賜るようにと悲痛な懇願をしています。

(不明個所は□にしています)沖縄を見捨て

県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ

残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ

僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難

尚砲爆撃ノ□□ニ中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦 烹炊婦ハ元ヨリ

砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リ ナバ老人子供ハ殺サルベク

婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セ ラルベシトテ

親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ


看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ

□□真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ

輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

是ヲ要スルニ陸海軍□□沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セ ラレツツ

(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)

只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ

遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト

謂フ

沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 

この厳然たる史実を日本人として決して忘れてはならないと思います。


戦後73年、日本の平和はいまだ沖縄の人たちの血と汗と涙の美しい結晶にぬくぬくと安住したままなのです。

 

『ちあきなおみに会いたい』


就職活動の噂話が流れてきたのはゴールデンウイークが終わって長雨が続く蒸し暑い日だった。

昼どき学食の隅に置かれたテレビからは往年の童謡歌手が「ルルル…ラララ…」と囁やくごとく妙な歌を唸っていた。

ちあきなおみのデビュー曲「雨に濡れた慕情」が深夜のTVから毎晩流れ出したのもちょうどその頃だ。TVを持たぬ私は夜ごと隣室の会社員を訪れ持ち込んだ安酒を肴に、TVに映るちあきなおみに聞き惚れていた。会社員の彼は東北の寒村から17歳の時に上京、それからアパート近くにある製本工場に勤務したという。そして来る秋には幼馴染との結婚をまじかに控えていた。いつもは口下手な彼だが酔いがまわると饒舌になった。学生運動はなぜ崩壊したのか、やがて革命が起きるかも知れぬと期待していたのにとTVに向かい呟くのが癖だった。それはノンポリに転じた私への愚痴とも軽蔑ともつかぬ繰り言に聞こえた。そんな声が聞こえぬふりをして無言で私は酒をあおり続けた。やがて私の頭の中では「雨に濡れた慕情」が「アカシアの雨がやむとき」と混然一体となっていく民主主義のご詠歌のごとく反響していくのだった。

一前年、秋雨に濡れたヘルメットがネオンの下で激しく揺れ動く新宿騒乱、あの夜で別れた友の顔が眼前に浮かんでは消えてくる。

やがて春が来たらこんな学生生活に別れを告げざるを得ない。過ぎ去った日々への哀愁に掻き立てられ私はいつしか涙腺を熱くしていた。こんな思い出に浸りたいとき、ひとりきりで、ちあきなおみを聞きたい。あの会社員と友人は今ごろどうしているのだろうかと思い巡らしたい。ちあきなおみは、ドラマチックなストーリーを秘かに語ってくれるに違いない。

私の耳に「喝采」いまだは鳴りやまない。

中坊公平先生の想い出

夏の京都に中坊公平先生をお訪ねしたことがある。 

それは平成16年、ある仕事のお願いに伺った時のことだ。 

先生が面談に指定された場所は大文字町の一角にある旅館だった。

うだるような暑さのなか額の汗をぬぐいながら約束時間よりかなり早めに到着した。

部屋に通されたが先生はいっこうに姿を見せない。待つことおよそ一時間ようやくお見えになられた。事前に頂いていた面談時間は一時間だった。時間がないので私は単刀直入に依頼の趣旨を伝えた。

それは法科大学院の学生むけ副読本の執筆であった。既成権力に立ち向かってきた先生の経験を活かした法実務の光と影を抉る狙いである。

法科大学院制度はその年にスタートしていた。

私の説明を聞き終わると先生は仕事の引受け条件を提示された。

それは専門書の執筆常識を越える厳しいものであった。なんとか妥協点を探ってみたが合意に至らぬままいたずらに時間が経過した。

すると先生は私の苛立ちを逸らすかの如く話を変えた。

大学受験から弁護士として売り出すまでの半生を唐突に語り出したのだ。 

その長い物語が終わる頃にはとうにお昼を過ぎていた。

しびれを切らした私を横目に先生は立ち上り「食べへんか」と部屋から歩き出された。後を追って別室に入るとそこには食事の用意がされていた。

取り交わす言葉がないまま食事が終わると先生は女将を呼んで一升瓶を持って来させた。手酌で盃を飲み干すとまた話し始めた。

それは新幹線京都駅の建設に絡んだ商店街住民立ち退き闘争の一部始終であり、当時の蔵相で後に首相となった佐藤栄作との暗闘を洗いざらいさらけ出した話であった。

その途中で私だったらどんな判断をするかと何度か問われた。法理論はともかく即座に思うままを私は回答し続けた。

そして酒瓶が底を尽きかける頃ようやく著作条件が合意に達した。私は胸をなでおろし窓に目をやると夏の陽は傾き夕やみが鴨川を覆いはじめていた。

早速お暇しようと私は腰をあげて玄関に向かった。

玄関先で靴紐を結んでいると背中に先生が立って「土産や」と八ツ橋を差し出された。

お礼の言葉もそこそこに待たせていたタクシーに乗り込むと今度は「待っててや」と仰られ女将に何かささやかれた。

女将がもってきたのは本と筆であった。先生は本の奥付に筆を走らせ私に差し出された。  

丁重にお暇ごいをしてタクシーの中で本を開くとそれは先生の著書で奥付けには「金でなく鉄として」と鮮やかな文字が躍っていた。

 

それからひと月ほど経過したある日の早朝、先生から電話を受けた。

執筆を辞退したいとのことだった。

電話のむこうの声は私に質問の余裕を与えぬほど切迫したものであった。

しばしのやり取りののち私は辞退を了解した。

そして数日後、先生に関する醜聞が週刊誌を駆け巡った。先生が執筆を突如として辞退された理由が何となく推測できた。しかし醜聞だけはどうしても信じられなかった。 

やがて秋になり私は休暇を取って京都に向かった。

時代祭の夜、木屋町はずれの酒屋の二階で先生の愛弟子と落ちあった。

先生が私の依頼を断った背景を彼は詳しく話してくれた。

過去数年にわたり先生の弟子と野党政治家たちは先生を某党の党首に担ぐ工作をしていたという。ところが話がまとまり実行に移るというその直前に政権の知るところとなった。先生の国民的人気を恐れた政権はマスコミと結託して先生の失墜を画した。そして先生は謀略に陥れられ社会的に抹殺されたというのだ。

それから一年が過ぎ祇園祭宵山で偶然にもその愛弟子に出くわした。

先生が母校、堀川高校の課外活動で弁護士の体験談を話されていると彼は話してくれた。

私は夏休みが終わったら堀川高校に出かけてみようと思った。

しかし終に行くことはなかった。何故か今でもその理由はわからない。

夏の夕暮れにふと出くわすと先生が語られた言葉を想いだす。

「法解釈が上手いだけの弁護士は仰山おる。しかしな、庶民の目線で権力と闘うのが本物の弁護士なんや」

「金でなく鉄として」・・・とは世の不条理を助長する金ピカの権威に対し強固な鉄のような意志で権力機構への異議申し立てを生涯貫き通した弁護士の遺言だったのだろうか。

条文解釈の巧さより人道に立脚した法律家を育てる副読本、先生はこれを最後の仕事にしたいと熱く語られていた。

その望みを達せられなかった悔を持ち続けたまま私は平成最後の夏の終わりを迎えていた。

 

任侠映画を超えた名作「博奕打ち 総長賭博」

「これは何の誇張もなしに『名画』だと思った。」と三島由紀夫が絶讃した作品です。

 

一家の総長が倒れ、跡目をどうするかとなったとき格からみて当然と思われた鶴田浩二の兄弟分若山富三郎が騒ぎを起こし務所入りとなる。お鉢は鶴田に廻るが若山を立てるべきと断る。種々の状況から格下の名和宏が継いだ。

 

ニ代目を辞退したうえには、いったん決まった跡目を死守しなければばらない鶴田。それはおかしい、兄弟が辞退したならオレが継ぐのが筋やとゴリ押しに出る若山。

 

仁義と激情のぶつかり合い、それを宿命であるとする日本の諦観に真っ向から異議を唱えアンビヴァレンツ(義と情、愛憎併存)な葛藤の超克に挑んでいます。

 

監督山下耕作の日本的様式美に徹して哀感を醸す映像は人をして深い心理的葛藤の闇に誘います。

そんな名場面がいくつも散りばめられています。

とくに小雨降る墓地のシーケンスは秀逸です。鶴田の女房、桜町弘子は、亭主から大事な兄弟分の子分を預けられたのに、亭主の留守中に逃してしまい手首を切って自害してしまう。その墓前にうな垂れたたずむ鶴田、責めるごとく見つめる妹の藤純子、その亭主若山。この三人が四方深緑に埋めつくされた墓地を前に血縁、婚縁、組織縁のしがらみを軸に展開する組織論。簡潔なセリフのやり取り、それを覆いつくして篠突く雨となり、三人が背負った悲運の性を表象するかの如き薄茶、薄紫、薄緑のそれぞれが手にした番傘、その色合いは哀しいほどに美しい。そして鶴田は若山の前で女房の墓に兄弟分の盃を打ちつけて割る。

 

鶴田、若山は勿論だが脇を固めるキャステイングもまた見事な布陣です。
とくにニ代目に担ぎ出され、あとに陰謀に利用されただけだと知る名和宏が素晴らしい。

 

全編を貫く研ぎすまされたせリフと静謐な映像は一分の隙もなくひたすら悲劇の終末へと向かいます。

日本人の生と死をギリシア悲劇にも匹敵する様式美と格調で描き出した名画です。

(1968年1月14日、東映京都)

 

 

共謀罪法案とアカシアの雨

共謀罪法案が今日6月15日に成立しました。
安保法案、特定秘密情報保護法、個人番号法と一連の情報統制法案の締めくくりとして
共謀罪法です。これにより国家統制体制への法的整備が終了となるのでしょう。
戦後の焼け跡から営々と築き上げてきた日本の戦後民主主義は臨終に瀕し瓦解の音が聞こえてきます。
 
奇しくも6月15日は60年安保闘争で樺美智子さんが亡くなった日です。
あれから半世紀が過ぎてこのような日を迎えるとは夢にも思いませんでした。
 
法案成立を報じるTVを消して眼を閉じると耳もとに西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」がかすかに聞こえてくる気がします。
1960年6月15日、安保条約に反対する若者を中心とした民衆33万人が国会前に押し寄せました。
しかし空前絶後の参加者数を集結した国会前デモは機動隊と暴力団右翼団体の襲撃にあい、あえなく敗北を喫しました。
東大四年生の樺美智子さんが圧死したのはこの時でした。
まだ小学生だった私はラジオから流れるニュースを布団のなかで聞きながらなぜか目頭が熱くなったことを今でも哀しく思い出します。
 
安保闘争を主導した学生たちの挫折感、その運動を支持した民衆の絶望感、重苦しい梅雨空、それらが重なりあってこの歌に救いを求めたのでしょう。
一番が「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい・・・」と絶望の淵からはじまります、しかし
三番になると「アカシアの雨がやむとき 青空さして鳩がとぶ」とほのかな希望の灯りをみつけだします。
 
あの安保闘争は敗戦の痛手からようやく心身ともに回復した民衆が民族の気概に目覚めてようやく知った被統治体制の矛盾と束縛の実感だったのでしょう。
いうならば「見えざる占領下体制」からの脱却を求めた民族自立運動だったのではないでしょうか。
 
一度は挫折した民衆の気概ですが四年後の東京オリンピックそして十年後の大阪万博と結束は強まり右肩があがりに立ち上った経済力は日本を世界の一等国にのし上げました。
しかし政治の世界では半世紀を経過しても「見えざる占領下体制」のまま主体的独立性への進展がないどころか後退を続けて今日この頃です。
 
このような政治の問題は多くの為政者が状況変革と創造主義者ではなく「見えざる占領下体制」に心地よくからめ捕られた、他力本願と状況依存の機会主義者であったことでしょう。
しかしそのような政治家を選出し承認してきたのはわたしたち国民であり唯々諾々と政治の堕落を看過してきた責任は免れえません。
 
問題の本質は政治支配の正統性を問い国家に対峙すべき民衆がいつのまにか国家に従属する居心地の良さに安住する国民に変身してしまったことでしょう。
戦後復興を支えた民主主義とは個人の自由な意見の表明とその交換に基盤を置く「民衆の主動的活動」でありました。
ところがいまやAKB48総選挙などスマホ片手にSNSと動画投稿に埋没するデジタル・オタク民主主義がこの国を謳歌しています。
 
都会の路地裏から田舎のあぜ道までラジオや蓄音機から流れだして絶望する民衆の気概をやさしく喚起した「アカシアの雨がやむとき」。
それは民衆の主導的活動への応援歌でした。
そんな唄がまったく見当たらない平成文化の衰退に梅雨明けの空を仰ぎ嘆くばかりです。
 

アザミちゃんという名の犬。

半年ぶりに田舎の温泉街で年上のゴルフ仲間と痛飲した。

妻を早くになくした彼の住まいはその温泉町の相模湾を一望する楕円形のマンション最上階にある。

その部屋で彼はアザミちゃんという名の老犬と暮らしていた。

昔その名の由来を尋ねたことがあるが彼は照れ笑いをしただけだった。

海に面した部屋の大きな窓の前には古びたグランドピアノが置かれていた。

彼の母親は子ども相手のピアノ・レッスンで生計を立て一人っ子の彼を育てたという。

陸大卒の父親ラバウル沖で戦死していた。

母が夫の戦死を聞かされたのは彼が2歳の誕生日を迎えた終戦間際だったという。

海軍に騙された父の戦死だと母は言い続けたらしい。

グランドピアノは陸軍士官に嫁いだ音大出の母の形見なのだ。

一緒にプレイしたゴルフが終わると風呂には入らず彼はマンションに直行した。

そして帰りを待つアザミちゃんを海辺の散歩に連れて行くのだった。

私も風呂は使わず山際にあるマンションに戻り温泉で汗を流す。

そして散歩からアザミちゃんが戻る頃合いを見計らって彼の部屋を訪ねるのだった。

ドアを押すと彼の奏でるショパンとともにアザミちゃんが膝元に飛び込んでくる。

アザミちゃんをソファにすわらせ相模湾に沈む夕陽をながめながら冷えたシェリーを酌み交すのが常だった。

そんなアザミちゃんがひと月前に亡くなった。

直後に彼からのメールで知らされた。

慰めの言葉も見つからぬまま今日まで来てしまったのだった。

アザミちゃんの思いで話も尽き閉店時間だと告げられ席を立った。

ドアを開けると季節外れの雨だった。

バーカウンターの隅で私たちの話を聞いていた店主が背後から傘を差し出した。

傘を手にして彼が誰にともなく呟いた。

「アザミちゃんが居なくなって帰り時間を気にする必要がなくなったよ…」

その声は気丈夫には聞こえなかった。

そぼ降る雨の中へと少し左肩を落とした彼の後ろ姿は消えていった。

半開きのドアから有線放送が流れていた。

"雨の降る夜は 何故か逢いたくて
濡れた舗道をひとり あてもなく歩く"

(「雨に濡れた慕情」)

タクシーを呼ぼうと思ったが思い直して雨の夜道を歩き出した。