bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

「民主主義と七不講に近づく日本の政治」

最近の世論調査によると各種選挙の投票率は50%を割るのが通常であり、いわば選挙権を有する国民の半数が政治参加をしない状況のようです。

つまり国民の半数に過ぎない参加者による多数決決定主義、その結果がすなわち全国民の意思表示だと政治断定されるのが今の日本の実態です。どう考えても納得のいかない、この状況に何ら疑問も異議申し立てもないまま承諾されているのが日本社会の不思議さは何でしょう。それは、世界が普遍的価値としている民主主義その形態さえ保てれば政治の失敗に対して国家あげて誰も責任を負わないー民主主義免罪符ー(無条件敗戦国家のルサンチマン)が原因の一つだと思います。(アメリカからの押し付けということで憲法についても同様の発想が横行しているように思います)私はこの問題の本質は代表制民主主義にあると思います。これは近代民主主義が当初から抱えてる問題です。国民主権と言いながら、選挙が終われば当選した代議員のための民主主義にさま変わりで、国民は政治的な政治への関与権を喪失してしまいます。これでは、ルソーが言うように「国民が自由なのは、議員を選挙する前だけのことで、議員が選ばれるやいなや国民は奴隷となり無に帰する」(原書のイギリス人を国民に置き換えてます)ではないでしょうか。

ちなみに、「日本の代表制民主主義の仕組みを信頼してるか」という言論NPOが行った世論調査(2019年)では、「信頼している」と回答したのは全年齢層で32.5% 20歳代は20.2%  30歳代は14.2%となっています。

したがい多数議席を獲得した党派は、国民からは全面的な信頼を得て執行権の付託を獲得したものと政権を掌握して国政の運営にあたります。そのため独断と主観に過ぎぬ判断であっても、客観的で合理性に沿ったものだと勝手に思い込んでしまいます。ここから政府の専制的政治が始まり、諦めのいい国民性はやがて専制政治を既成事実化してしまうのではないでしょうか。

とすると、私たちは民主主義を声高く叫ぶほど皮肉にも民主政治とはほど遠い専制政治を助長していくのではないかと心配になります。

私たちは皮肉にも中国の七不講ならぬ自縄自縛の世界に入り込んでいくのでしょうか。


注)
七不講とは中国共産党が2013年に各大学に通達した言論規制いや焚書坑儒でしょうか。
人文系学問の自由が大幅に制限され、反抗する教授や講師が学生に密告されて職を失うこと多数のようです。

「七不講」とは、以下七つの口にしてはならないテーマのことをいうようです。
(1)普遍的価値、(2)報道の自由、(3)市民社会、(4)市民の権利、(5)党の歴史的錯誤、(6)特権貴族的資産階級、(7)司法の独立。