そもそも民主主義とは、市民が自由選挙で選出した代表を通じて市民としての権利を行使しかつ責任を負う統治形態というものだが、
いくら美辞麗句を並べようと所詮は数の論理による統治形態である。
統治者と被治者である市民との間を媒介するのが選挙で選ばれた代表者であり、代表者は市民の意見を代表して国会に参加する。
国会では各代表者は自己の意見を通す為に同様の意見を有する代表者と徒党を組んで政党を結成する。国会では政党は意見を貫徹するためには多数派となる必要がある。
市民の意見や権利は政党を通じて実現されるというが、これは多数派の政党に関しての話であり少数派はときどきおこぼれにあずかるだけである。
これで何とか日本は回ってきた。
ところが、いまや市民権利を代表する政党の機能は衰えて消失してしまっていることが大きな問題である。
なぜなら、グローバリズムとデジタル化により社会が液状化してしまい政党は社会の輪郭と特徴を把握したコミュニテイのセグメンテーションができなくなったからである。
増加する一方のサイバーコミュニテイなどカオス化した個の見えざる集合体であり、市民像をイメージすることさえできない。
その結果として社会と政治との接点という機能を政党が果たせなくなっているからである。
したがい、国会が法律の発議や起草をする場ではなくなり、主要な機能は与党は多数決で政府を支持し野党は政府の座を奪おうと非難に傾注する、ということになっている。
その行く着く先は、次のようなことになる。
与党は権力者に継続的な正当性を付与するだけの目的で戦い、野党は権力者の失墜を準部する。
つまるところ、政党は市民の主張を統治者に対して代表することよりも、統治者の主張を市民たちに代表することになっているのである。
このような民主主義のファッショ化、専制化は今にはじまったことではなくヴァイマール憲法下のドイツ以来、民主主義の不治の病といえよう。
この解決策として、フランスをはじめとして幾多の諸国が統治者を別に選出する大統領制に切り替えているのであろう。(アメリカの大統領制は経緯が異なる)
日本が欧米諸国に遅ればせながら民主主義の危機に至ったのはなぜか。
それは戦後日本の優秀な官僚が作り出した中間層が復興経済のおこぼれに等しくあずかり自由の幻想に浸れ弥縫策でも民主主義がもってきたからであると思う。