「ひとはなぜ戦争をするのか」という本が20年以上前に刊行されています。
内容はアインシュタインとフロイトの戦争をめぐる書簡交換ですが、90年前の
両偉人の意見交換はこの問題をじっくりと考えるには大変参考になります。
フロイドの「生の欲動」と「死の欲動」という個人の精神分析から得られた発想、
それをベースにした権力と権威が結託した国家暴力論、それが戦争の原因だとフロイトはいいます。
フロイドによると人間には死の欲動(破壊本能)が備わっておりそれを取り去ることはできない。
では戦争を防止する方法を果たしてあるのか、フロイドは一つの答えとして死の欲動に対抗する生の欲動に訴えかけることを提案します。
生の欲動すなわちエロスの欲望の表れなど人間の間に感情的な絆を作り出すものはすべて戦争防止に役立つとして二つの例を挙げます。
一つ目は愛する対象との絆、二つ目は同一化です。
一般的に文化的に洗練されてない人ほど差別主義者になりやすいと言われます。
異文化を理解することは文化の多様性を理解することでもあります。
それを充分に理解できれば異文化の人に対してもいたずらに偏見を持ったりしないし、
さらに言えばたとえ異文化に同一化することで共感しやすくなります。
それが文化の能力に期待することであり、文化は死の欲動の発動自体を抑える働きがあと指摘しています。
文化と文明の違いについて文明は科学技術的なもので文化はどちらかと言うと人文的な知識全般を指すもの。
文明の発達はむしろ人を好戦的にしている面もあります。
軍事産業の発展や大量破壊兵器の開発などは文明の帰結でこれらは
死の欲動に過剰な力を与えてしまったともいえるかもしれません。
また有名な中井久夫の下記の論考も参考になると思います。
「戦争は進行して行く有期限の過程である。平和は状態である。」
一般に過程は理解しやすくビビットのあるいは理論的な誇りになる語りになる。
これに対して状態は多面的で名付けがたく語りにくくつかみどころがない。
一般に戦争には自己収束性がないから戦争の準備に導く言論は単純明快簡単な論理構築ですむ。
人間の奥深いところ人間の生命感覚にさえ訴える誇りであり万能感さえ生むものであり戦争に反対して
この効用を損なうものへの怒りが生まれ違い感さえ生じる(中井久夫)
そして「力には力」「武力なき外交の無意味さ」論については、
斎藤環のいう「他者に投影された暴力性の問題」が参考になると思います。
自分は暴力的な人間ではないが他者がいまだ野蛮で暴力的である可能性がある以上、
こちらも対抗上武装して自衛するしかない。
このように相互に攻撃性を投影し合う状況が日本において安保法制化以降の
防衛増強論の展開を後押している大きな根拠であると私には思えます。
文化の目的とは常にいかなる場合にも優先されるべき価値として個人の自由、権利、尊厳が
必然的に導かれるものであり、私たちは世界史レベルで見ても最高度の文化的な平和憲法を抱いています。
フロイトさえも考えつかなかった戦争解決の手段すなわち戦争放棄の人間が燦然と輝いているのではないでしょうか。
いま私たちがやるべきことは異文化との「対話」だと思います。