bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

アメリカ大統領と分断を巡る妄想

アメリカ大統領選挙では、集団心理を利用したバーチャル扇動ゴッコが国の内外を席巻し妄動にかられた方々もおられたように思います。

私はアメリカ大統領選で妄動ならぬ妄想を逞しくしました。

一つは、
あのトランプの後任にもかかわらず新大統領に何ら魅力を感じないのは何故だろうか。
そういえば日本の首相交代は更にお粗末だった。
近頃は政治に携わる人間に高い資質の人がいないのではないか。そんなことは既に国民は了知した上での虚しい政治劇だったのでないだろうか。
だからこそ、史上最高齢の大統領が今頃になって「アメリカの民主主義」の勝利宣言を行い、国民の連帯を連呼せざるを得ないのではないか。これが空虚な政治劇の幕引きか。

反トランプが世論の趨勢であったなら、夢を持って将来の国家ビジョンを語る若い政治家が輩出し、アメリカ民主主義の大義のもと論争に勝利した若者が大統領候補者に選出されても良かったはずだ。
思うにGAFAを筆頭に他の分野で活躍できるような人材は政界には入ってこないのだろう。
破綻した経済のトリクルダウン理論は政治の世界でも成り立たないようだ。

もう一つは、
アメリカ社会の分断はトランプ大統領就任のはるか前から兆候を見せていた、にもかかわらずいままで見てみぬふりをしてそのツケを一切合切トランプ個人に転換するのは、どう考えても理不尽だ。
たった一人の異様な変人が権力を掌握してから四年足らずで大国のアメリカ社会を分断できるはずはないだろう。

そもそもトランプは民主主義的手法に則って選出されたではないか。そんなトランプを選出した選挙民の責任はないのだろうか。国民の良識と知性は問われないのだろうか。
そこでアメリカの大義なる民主主義だが、その理念を支えるのは自由と平等だろう。しかし時には対峙することでその特性を表象する概念でもある。

この概念を並存させたのが民主政治という水平思想。
いっぽう移民に始まる多民族の国民国家、その統合という垂直思想。
この組み合わせはそもそも相性からして良くはなかった。
しかし南北戦争を経験すると指導層は人材の厚みを増した。さらに二つの世界大戦は経済的繁栄と世界のリーダーシップをアメリカにもたらし、水平と垂直思想の交点を確固たるものとした。

ところが自ら旗振りをしてきた新自由主義とグローリズムという創造的破壊ともいうべき二つの理念により、鉄壁を誇った交点は緩んでしまい、自由は平等を凌駕し貧富の格差は拡大して社会の思想基盤が抱える矛盾を露呈し知の亀裂を生じてしまった。
この修復には困難を極めよう。
なぜなら、身から出た錆とも言える自己矛盾なのだから。

緊急事態宣言と民主主義

首都圏に続いて大阪、京都、兵庫が緊急事態宣言の対象になり、さらに追加される自治体が出てきそうです。しかし政府は緊急事態宣言の対象地域を全国に拡大することには否定的な見解を示しています。その理由は、私的制約を最小限にするのが本宣言の本来の主旨だからとしています。
たしかに私的制約というものは自由の制約につながるリスクもあるので政府の言い分も了解できます。
いっぽう対象地域を全国に拡大せずに急速な蔓延を食い止めることができるのか疑問も残ります。

緊急事態宣言により飲食店は営業時間を制限され営業収入が減少してしまいます。そこで政府は収入減の穴埋めを行うとしています。ところが補償額は定額ですから、お店によりこの補償額では採算が合わないところが多々あるようです。お店の規模や収支に関係なく一律の補償額というのは、どうみても公平性を欠きます。
そこで緊急事態宣言は罰則規定がありませんから生き残りを賭けて宣言を無視するお店が出てくるのもやむを得ないとも思えます。

緊急事態宣言により営業上の支障をきたすのは飲食業のみではありません。しかし政府は飲食業以外の業界に対する補償については言及していないようです。

このように緊急事態宣言で露顕した社会的な問題を考察してみますと、

一つは、飲食業各店に対する補償額の平等性、そして飲食業以外の業界に対する対応との不公平さ、いずれも平等性を欠いていると思います。

また強制力のない宣言のためお店の自由意志に依存するしか宣言の有効性は担保されません。
これは公益性を主旨とする行政機関の宣言が持つべき平等性を欠くものといえます。いっぽうでは営業時間の自由性という営業権を配慮したという評価もできます。

私はここに民主主義社会の内包する問題を垣間見るように思います。


民主主義という理念の根幹をなすのは、平等と自由の概念です。しかし、この二つは親和性は高いもののけっして同一性を有するものではなく、時には相反することでその特性を表象するものです。

先に述べた平等性の欠落は私益(自由)が公益(平等)を阻害することになりかねません。いっぽう私的営業権(自由)を考慮すると宣言の公共性(平等)が損傷してしまいます。

どうも今回の政府宣言は平等と自由という概念の必然的衝突を惹起しているように思えます。

換言すると民主主義の根源といえる二つの概念が内包する問題を露顕した政府宣言とも思います。

民主主義国家の緊急事態宣言、その科学的根拠なき有効性はともかくとして、民主主義が内包する本質的な矛盾(平等と自由の相克)を今回はジックリと考える良い機会ではないでしょうか。

デジタル化とは何か

日本を含む多くの先進国では経済格差の拡大が続いています。この大きな背景は新自由主義と金融資本主義が健全なる経済発展を阻害してきたためと思われます。巷間いわれる産業の空洞化というのものは別の次元の問題です。日本の産業のモノ作りの成功例であった電機や機械産業が競争力を失い韓国や中国に敗れたのは、デジタル化の意味を理解できなかったからだと思います。デジタル化への移行は韓国や中国より早かったのですがモノ作りをデジタル化しただけで結局は製品のコモデテイ化を推進して自滅をしたのです。デジタル化の意味とは、アトムによるモノ作りの価値ではなくビットによるコト作りです。例えばソニーのウオークマンはアトム発想の傑作でしたが音源はCDやMDなどのアナログ媒体でした。そのため本体と一緒に音源媒体を携行しなければなりませんでした。しかしアップルのiPodはデジタル音源を使うため本体に内蔵したメモリーチップにデジタル録音をすれば良いのです。CDなどのアトム媒体は不用となりました。
ソニーは本体のみならずCDなどの音源媒体でも販売利益を目論んでいました。しかし消費者にとって本体と音源媒体を持って歩くのは煩わしく面倒です。目的は音楽を聴くことですから、本体と音源媒体が一緒になっているに越したことはありません。更に音源取得の選択肢がアナログではハードウェアの互換性などにより限定されますがデジタルだと音源への接続融通性は無限に近いものとなります。
昔から音楽を聴くには音源媒体と再生装置が必要だったのですがiPodは両方を一体化したのです。同様にAmazonは倉庫と運送そして支払い機能を一体化しました。アトムの発想を一体化して即時性と可視化を実現して消費者のコト作りーiPodの例で言うとどこからでも好きな音楽を手に入れて何処でも聴けるーすることを支援することがデジタル化の意味です。しかし日本のメーカーはいいモノを作りのDNAを脱しきれずアナログ製品をコモデテイ化するだけだったのです。もう一つデジタル化の意味があります。それはアトム発想の、利益の源泉はモノ作りによる販売利益とは異なるもので、デジタルプラットフォームの使用による利用料が利益の源泉であることです。
GAFAがその典型です。アップルはモノ販売でも大きな利益をあげていますが。このようなデジタル化の意味に気づいたのは豊田章男さんが恐らくは最初ではないでしょうか。彼の危機感は車は売るモノでなく使うコトに価値があるとして大きな発想転換をしています。グーグルなどデジタルプラットホーマーと提携しないと明日はないと明確に自覚しています。おそらく日本の自動車メーカーで生き残れるのはトヨタだけかもしれません。

沖縄と米軍基地

問題の本質は沖縄の悲嘆を枕に惰眠を貪るわたしたち国民の腐敗した倫理体質ではありませんか。あの戦争でわが国は敗戦まぎわに本土決戦を宣言しました。ところが実際に敢行したのは沖縄だけです。さらに敗戦後は四半世紀にわたり米国統治下に放置したまま誰もその責任を負わずに口を拭い本土返還されるや無為姑息に米軍基地を沖縄に押し付けてきました。「まこと」を尽くし抜く同胞に共鳴し共に 状況変革を唱えて立ち上がることさえできないほど精神が劣化してしまったのです。

国民を愚弄するGOTOキャンペーン

異様なほどキャンペーンに固執していた菅首相は12月14日には一転して全国を対象にしたキャンペーンの停止を表明しました。
この背景について私は以下の推測をしています。


日本政府はCOVID-19蔓延に対しては消極的かつ場当たり的な対応しかしてこなかったため医療体制の整備が遅れ医療機関は逼迫しています。
いっぽうキャンペーン停止期間中は人の移動や物流がピークとなる年末年始のビジネス繁忙期にあたることもあり、
感染者数の増大を食い止めることは容易ではないと予測されます。


そこで、キャンペーンの一時停止後であっても感染者数は減少しないだろと首相は事態の推移を読んで既定のシナリオを作り変えたのだと思います。
感染者数の変化はないという予測が当たれば、「やはりGOTOキャンペーンは感染の拡大に因果関係ない」と過去の
首相の言い分を裏付けることになり、見えを切って栄誉を挽回できるからです。
たとえ読みが外れたとしても世論に応える対応を決断したのですから首相として失うものはありません。
どちらにしても結果として「失敗は成功の基」となるかもしれません。


しかし、こんな政治は国民を愚弄しきったものだと思います。このような政治の道義的崩壊を許容していることにわたしは国家自壊の恐怖を感じます。

生命より経済を選択する日本政府

GO TOキャンペーンというキャッチフレーズのもと特定の業界に税金を使い支援する政府の経済政策には大いに疑問を持ちます。

COVID-19禍の影響は、その度合いの多寡はともかくすべての産業界にわたるものです。

それなのに、なぜ特定の業界のみが政府支援策の対象となっているのか。また人との接触がウイルス感染のリスクをもたらすとして、入国者には空港からの公共交通機関の使用禁止かつ入国後二週間の自宅等特定宿泊所への滞在を義務付けているのに、なぜ国内では公共交通機関を使い見知らぬ人との接触機会を拡大する国内旅行を国民に奨励するのか。

政府の専門委員会やCOVID-19の治療にあたる医療関係者からキャンペーンの停止を求める声が日増しに高まるにも拘わらず、なぜGO TOキャンペーンに執着し続けるのか。

医療崩壊の危機の前に政治はすでに崩壊しているように思えます。

 

いっぽう政府はこのような疑問に対して、COVID-19対策と経済対策の両立で国民を支えるといいます。

しかしキャンペーン対象にはなっていない数多くの産業が国民経済の大半を支えているのが実情です。そして医療機関の逼迫した機能の麻痺的状況を見るにつけ、人あっての医療とCOVID-19対応であり、かつ人あって存立できるのが経済です。

ものごとの道理として人の命が主であり経済は従であることは言うまでもありません。

とは言え、割安だからというだけで予測不能な生命の危機に身をさらす人たちが国民の中に少なからず存在することもおおきな問題だと思います。

医療崩壊の前にすでに政治の崩壊をきたしていると思えます。

 

「学者の方々が、クリスマス前に、おじいちゃんおばあちゃん、祖父母、お年寄りの方に会う前に、1週間の接触制限を実現するよう私たちにほとんど懇願するように進言するのであれば、やはり、冬期休暇を12月19日ではなく、たとえば16日に早めるなどのようななんらかの手段をもう一度検討すべきなのではないでしょうか。今世紀最大と言えるような出来事を振り返ってみるとき、私たちがこの3日間(12/24から12/26まで)のために何らかの解決策を見いだすことができなかったとしたら、どう言われることでしょうか。・・・

私たちが今クリスマス前に人との接触を多く持ちすぎて、それが祖父母との最後のクリスマスになってしまったのだとしたら、私たちは何かを怠ったことになるのだということです。そういう事態は避けるべきでしょう、連邦議員の皆さん!」

12月9日メルケル首相が30分にわたり国民に向けて語った情熱的なスピーチが話題になっています。同じ敗戦国でありながら、この政治の落差には愕然とします。

 

経済を無視できないことは当然のことです。であれば、あまねく国民と産業に共通して影響のある消費税を当面は廃止をすべきです。そして、とにかく乾坤一擲、人命第一の政策に徹底すべきでしょう。

 

ところで、こんな事態であるにも拘わらず、政府は憲法第9条を焦点とする憲法改正の意向を表明し与野党合同で検討に入っているとのことです。

国民の生命を軽視してはばからぬ政府、その本性がCOVID-19対応で明瞭になってきたように思えます。このような政府に国民の生命を付託して国防など任せられるでしょうか。

COVID-19に対する今後の政府政策を注視していきたいと思います。

資本主義の終焉についてー試論

資本主義の原点は負債に始まると言われます。そのため資本の論理とは、資本の増殖を絶え間なく継続していくことになります。
このためには資本の増殖率=利子率はプラスであることが必要です。
そしてアベノミクスが2%に固執したように利子率=利益率が2%を下回ると資本から得るものはなくなると言われます。

サイバー(デジタル)経済以前の実物(アナログ)経済の資本主義では、空間(先進国と後進国)と時間(情報、移動)の生み出すギャップにより利益率は2%をはるかに超えていました。
実物経済は1970年代半ばには頂点を迎え、主要先進国の10年物国債の利子率は11-14%でした。

その後、世界的な規模での経済発歩調を合わせるように急速なテクノロジーの進歩と運送手段の進化により時空間のギャップは埋まり始めました。やがて実物経済はフラット化する時空間のメリットを享受できなくなり、代わって金融経済が時空間の短縮メリットの恩恵を受け活躍してきました。
たとえば、米国の全産業における金融業の利益比率は1980年前半までの50年間は10%でしたがそれ以降の20年間に30%を超えていきました。

さらに2000年以降は中国の急激な経済発展と社会生活のテクノロジー化にともない、時空間に加え利子率のメリットが薄れてデジタル経済が主流になりました。
デジタル経済は、利子率=利益という資本主義の基本論理を破壊して情報独占(ビット量=利益)という経済の定理を打ち出したと思えます。
言うなれば、利子率からビット量への価値転換だと思うのです。


以上は負債が資本主義の原点とした、利子=利益という資本主義論理の一つの要素についての考察であり他の要素を検討していません。
いずれ利子以外の要素を掌握して歴史的な経緯と現状の問題を把握、そのうえで総合的に論点整理するつもりです