bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

マイナンバーカードの混乱は手段の目的化が原因だ。

現在マイナンバーカードの累計申請数は総務省ホームページによると97,157,317で人口に対する割合は77.2%に達しています。一方、マイナンバーカードに関連するトラブルが続出しております。

 

そもそもマイナンバーカードの発端となったのはマイナンバー制度です。この制度は個人情報保護法という一般法を追いかけて作られたマイナンバー法という特別法(同一の事項が一般法と特別法に規定されている場合は特別法が適用)に基づく制度であり、その趣旨は個人情報の機密性と安全性を確保することが主たるものです。ところが総務省マイナンバー制度導入のポイントについて、次のような説明をしています。(総務省ホームページより抜粋)

 

(国民の利便性の向上)

これまで、市区町村役場、税務署、社会保険事務所など複数の機関を回って書類を入手し、提出するということがありました。マイナンバー制度の導入後は、社会保障・税関系の申請時に、課税証明書などの添付書類が削減されるなど、面倒な手続が簡単になります。

(行政の効率化)

マイナンバー制度の導入後は、国や地方公共団体等での手続で、個人番号の提示、申請書への記載などが求められます。国や地方公共団体の間で情報連携が始まると、これまで相当な時間がかかっていた情報の照合、転記等に要する時間・労力が大幅に削減され、手続が正確でスムーズになります。

(公平・公正な社会の実現)

国民の所得状況等が把握しやすくなり、税や社会保障の負担を不当に免れることや不正受給の防止、さらに本当に困っている方へのきめ細かな支援が可能になります。

 

 国民の利便性の向上に行政が資する件に関しては個人情報に限らずとも、識者が指摘してきたように従来の縦割り行政を国民視線で一本化すれば多くの問題は解決可能となるものでしょう。また公平・公正な社会の実現は政治の本質的な重要課題です。マイナンバーなどの行政ツールをもってして実現できるなどと多くの国民は夢想すらできないでしょう。

行政機関自身にとっては業務軽減になっても国民のメリットは見えてきません。制度導入後6年経過した昨秋になってもマイナンバーカードを取得したのは全国民の約半分という現実がその証だと思います。

 

こんな状況下、グローバルなDX化の波が日本に押し寄せました。そこで急遽浮上したのがマイナバーカードを利用した国民背番号プラットフォーム(徴税から徴兵までの収奪システムと給付金管理システム)の構築であろうかと思います。急拵えのデジタル庁がマイナンバーカードのメリットとして掲げたのは以下の項目でした。

1.本人確認書類になる

2.コンビニで各種証明書が取得できる

3.健康保険証としても使える

4.マイナポイントももらえる

5.新型コロナワクチン接種証明書の電子交付にも利用

6.オンラインで行政手続

7.「マイナポータル」で暮らしがもっと便利に

8.民間のサービスでも使える

 

なるほど多くのメリットがありそうです。しかし、なぜ公的サービスの利用でポイント(税金)がもらえて民間のサービスでも使えるのでしょうか。個人情報の機密性は担保されるのでしょうか等々。そんな国民感情に業を煮やした河野太郎デジタル相はマイナンバーカード取得促進のため2万ポイント付与という子供だましにも劣る愚策を弄しましたがその効果は限定的でした。そこで6月2日に改正マイナンバー法を成立させて、2024年秋には現行の健康保険証を廃止して「マイナ保険証」に一本化、マイナンバーの年金受給口座と紐づけることにしたのです。保険証を停止するとは、すなわち国民の生命を人質にすることであり、年金受給口座をマイナンバーカードに紐づけるとは政策の大転換であります。ことはマイナバーカード取得云々の話ではありません。まさに異次元のマイナバーカードです。

 

国民皆保険制度も年金制度も敗戦の焼け跡から政府と国民が共同で営々として築き上げてきた社会インフラです。そのインフラもいまや幾多の問題を露呈し制度疲労から破綻の兆候さえみせつつあります。それにも関わらずかような問題を包摂した制度はそのままにして、国民が馴れ親しんだ運用手段を強引に捻じ曲げてでもマイナンバーカードの完全普及を図るというのです。

 

マイナンバーカードとはマイナンバー制度の運用手段であり、マイナンバー制度も国民の利便性、行政の効率化そして公平で公正な社会実現のための方策に過ぎません。

しかし、上述してきたように本来なら目的達成のための手段に過ぎないマイナンバーカードですがその完全普及がいまや至上命題と化しているのです。

何時しか手段を目的にすり替えた。そのために保険証など他の手段も統合したマイナバーカードとして目的化を後付けで正当化する。そのため独断的な法制化を強行しているとも思えてきます。

 

思い起こせば平成の30年にわたる規制改革とは、マイナンバー制度と同様に美辞麗句を列挙した手段を掲げましたが、その手段を目的化してきたのではないでしょうか。

失われた10年が恒常化した社会に馴れ親しんだため、いつ達成できるかわからない本来の目的を喪失して私たちは目先の動きがわかりやすいだけの手段をいつの間にか目的としてしまっているのではないでしょうか。

 

近ごろ生成AIが注目を浴びていますが、やはり手段が目的化されてしまう不安を感じます。

目的というものは揺らぎある日々の状態のみ重ねを経て達していくものであり、目的達成のための効率化や利便性を使命とする手段とは別次元の概念だと思います。

誤解を恐れずにいうならば、目的とは平和のようなものであり、手段とは平和維持、達成のための戦争のようなものだと考えます。

 

チャットGPTは日々メタデータの蓄積が幾何級数的に行われていることから確かに文書作成の手段としては期待し得るものかもしれません。そして生成AIはインターネットのようにやがて文明の発展に寄与することになり得るという予感もします。

私もチャットGPTを試してみました。

 

そこで改めて気が付いたことは日本語の特殊性です。

英語26文字(大文字入れて52)ドイツ語は69、フランス語は82からなる言語のようです。他国の言語も中国を除くとせいぜい100文字程度ではないでしょうか。

しかし、日本語は常用漢字2,136、平仮名77,片仮名82と約2,300にもなります。

さらに音読み、訓読み、送り仮名など複雑です。

チャットGPTを使った文書の趣旨は読み取れますが、然るべき日本語の文章とはいえないものでした。いかに多量なデータを分析しても俳句や短歌などに込められた情緒や隠された意図などを解析して編集できるのか疑問に思います。

 

文明の進化という生活向上の一手段、それが日本では高度経済成長の成功を背景に経済成長が至上命題となり国民的な道徳律にまでなるという成長神話を生んできました。

その陰で日本古来の美徳や風習が姿を消していったことを忘れてはならないと思います。

漢字(真名)を取り入れた日本は仮名(真名に対する仮)を生み出し、話し言葉を平仮名として日本語を生みだしました。仏教や儒教をはじめとして多くの生活手段などを日本は異国から取り入れ日本化(内生化)することで日本文化を構築してきました。

 

しかし、インターネットやスマホの急速な普及は、我が国に日本化を完成する時間的余裕を与えることなく逆にグローバル化を進行させているようです。

 

文明の進化とはプロセスが明快なだけに戦争のごとく華々しくて誇らしい気分にさせるものです。いっぽう文化とは平和のごとく一途でありながら多様性を受容する平凡さと工夫の積み重ねが生成していく地味な状態です。

 

生成AIに関する日本の状況を見ていると、マイナバーカードと同じく手段と目的の取り違えが起きかねないのではないかと一抹の不安を感じます。

Jアラートに思う

Jアラートは正式名称を「全国瞬時警報システム」という。

国が、時間的余裕がない有事の際に、住民に情報を届けるために使われるシステム。

有事を察知した場合、内閣官房総務省消防庁のJアラート送信システムを使って

主に携帯電話会社と市町村の受信機に情報を伝える。

携帯電話会社は、対象エリアの携帯電話に緊急速報メールなどを送る。

市町村では、防災行政無線などが自動的に起動してサイレンが鳴り、

スピーカーから避難を促すメッセージが流れる。

一方、エムネット(Em―Net)は「緊急情報ネットワークシステム」という。

Jアラートと同様に、専用回線を使ってミサイル発射などの緊急情報を国から都道府県や市町村、

報道機関などに伝えるシステム。

内閣官房からメッセージが一斉送信され、自治体側が受信すると、

担当者が把握できるようパソコンからアラーム音が流れる仕組みとなっている。

(以上、朝日新聞デジタル4月13日より抜粋引用)

 

ということらしいが、何が違うのかよくわからない。

要は国民に対して迅速かつ正確な情報を伝達する仕組みであればそれでいいのである。

 

4月13日午前7時26分、防衛省北朝鮮から弾道ミサイルの可能性のあるものが発射されたと発表。

政府は午前7時55分に「北海道周辺へのミサイル落下」があるとしてJアラートを発出。

午前7時56分、エムネットの情報は「先ほど発射されたミサイルが午前8時ごろ、北海道周辺に落下するものとみられます。

北海道においては直ちに建物の中や地下に避難して下さい」と伝えた。

ところがである。それからしばらくたつと政府は、北海道周辺へミサイルが落下する可能性はないと訂正した。

松野官房長官は「探知の直後、レーダーから消失した」「限られた情報の中でシステムが航跡を生成したため、

国民の安全を最優先してJアラートを発出した」と説明。

岸田首相は「国民の命を最優先する観点から発出した。Jアラートの役割を考えれば適切だった」と語った。

 

国民の安全と生命を最優先することになんら異存はない。しかし「探知直後にレーダーから消失」とは何たることか。

今回のJアラート騒動で改めて浮き彫りとなったのは、岸田首相が前のめりで無節操にも進めた防衛力強化策と称する

「敵基地攻撃能力」の危うさだ

岸田首相は「敵基地攻撃能力」を、攻撃という言葉の持つ暴力性を隠蔽すべく「反撃能力」と言い換えた。

そのうえで(国民が異議を唱えがたい)「反撃能力」を持ち出し、その保有は国防上不可欠だと強調、

増税を前提に防衛費倍増予算を強行決定したのである。

 

そもそも反撃とは相手の第一撃に対して報復措置を行うものである。

しかし相手が攻撃に着手したことをどうしたら即座に察知できるのか、もし判断を誤れば先制攻撃となる危険性がある。

それにもかかわらず政府は反撃能力の行使基準をまったく示していない。

このように具体性を持った議論に基づく政治の説得性それをを欠いたまま岸田首相は防衛力増強へと突進したのだ。

 

問題の本質は松野官房長官がおこなった説明その覆い難い矛盾である。

「限られた情報の中でシステムが航跡を生成した」としながら「探知の直後、レーダーから消失した」と言い切っている。

システムに航跡の生成能力がないのか、情報収集能力が不備なのか、であればなぜ探知できたのかまったく理解できない。

こんな役立たずのシステムを前提に、どうやって第一撃に反撃するのかどう考えても不可解だ。

反撃どころか相手側の第一撃が何処に向かうのかその行方さえ日本政府は把握できていないのだ。

いまや国民からK(岸田)アラートを発出しなければならない時が来た。

 

手放しで喜べない給料アップ

物価高騰に困窮する庶民の救済と称し岸田首相自ら音頭を取り旗振りをした給料アップ政策。

かつては安倍政権も脱デフレ・景気浮揚策の一環として政府主導の賃上げを図ったことがある。

しかし魅力ある消費対象のない日本で多少給料が上がっても破綻した福祉政策や際限なき増税など

将来不安の消えない庶民の財布は緩まなかった。

そもそも物価高騰への対処策とは政治課題なのである。

しかるに政府は対策を処するにあたり全国民に対して万遍なく即効的な波及効果のある消費減税をおこなわず、

一部企業の従業員にのみ恩恵が生じる便法を企業に押し付けたのだ。

国民に給料アップという餌を見せて光明幻想を誘い統一地方選で優位に立つべく意図した政局対策ではないだろうか。

いわば物価高騰に喘ぐ国民の惨状につけ込んだパーフォマンス、お粗末な惨事便乗政治にすぎないと思えてくる。

給料アップに対応する企業の体力格差から自ずと生ずる給料アップの結果が

社会に及ぼす副作用を考えると手放しで給料アップ政策には賛同しがたい。

 

問題は二つある。

日本における給料とは世俗的倫理に近い社会的拘束性を有するものであり一度アップしたら

経済数値などを根拠にした論理では容易にダウンを説得し難い性格のものである。

さらに問題は容易に賃上げができない体質の中小企業が全日本企業のうち圧倒的な多数をを占めるていることである。

中小企業庁のデータによると、大企業の割合は全企業数の0.3%。 国内の企業数は421万社あり、

そのうち1.2万社が大企業で 残りの419.8万社が個人事業主を含む中小企業である。

中小企業は企業数で全体の99.7%、従業員数で68.8%を占めている。

 

また厚生労働省の調査(令和3年)によると、大企業の平均賃金(月あたり)は366,400円、中企業314,800円、

小企業289,000円である。賃金に反映されないフリンジベネフィットを考慮すると

大企業と中小企業の従業員の経済的な格差は歴然としている。

 

 

 政府がいくら叱咤激励しようが全企業が簡単に給料アップできるわけではない。

原材料費や物価と異なり給料は一度アップしたら簡単にダウンできないゆえに、給料アップができるのは財務余力があり

また原材料の高騰分を商品・サービス価格に転嫁できる大企業がそのほとんどを占めることになる。

いっぽう原材料の高騰など経費の増加を容易に販売価格へ転嫁(大企業の下請け競争と市場の価格競争に負ける)できない

中小企業にとって給料アップとはイコール経費アップであり経営に大きな支障をきたしてしまう。

給料アップ率を競うかごとき大企業サラリーマン経営者の高笑いの陰で全財産を抵当に入れて給料の捻出に四苦八苦する中小企業経営者がいる。

こんなことでは企業数の9割9分超かつ従業員数の約7割を占める中小企業への「弱者いじめ」ごく少数の大企業とその従業員が享受し得る

「強者の驕り」という社会を助長するだけではないか。

持てる者と持たざる者の体力格差はさらに拡大しますます日本社会の分断化を促進するに違いない。

彼方の戦火を見て眼下の竈煙が見えない政治はやがて中小企業とその従業員そして持たざる者を軍靴でもって蹂躙していくのだろうか。

 

蛇足)

岸田首相は「新しい資本主義」を唱えるが、そもそも魅力ある消費対象のない日本社会の状況で持てる国民の収入を増やしても

大多数の国民は物価高騰にとても追いつかない給料アップ(これでも中小企業として最大限)では経済が回るはずがない。

それ以前の問題として、国家ビジョンが不透明というよりまったく見えないこの国では多くの国民は将来の生活実感と

儚い夢すら持てずましてや若者は将来の生活設計が立てられない。その結果として出生率の低下という民族の再生産さえできぬ

国家存亡の危機に瀕しているのです。

問題の本質は米国庇護のもと経済一本で成功した戦後の成功体験をいまだ踏襲したままの対米従属金権政治であり、

バブル崩壊後三十年いまだ無為徒食の為政者と私利私欲に明け暮れ国富の収奪に奔走する政財官の奸の横行です。

いま国民がなすべきことは無能な統治層と強欲な政官財が野合結託した似非国家資本主義という欺瞞体制の打破でしょう。

 
 
 

ウクライナ・ファティーグ

ロシアのウクライナ侵攻から1年になる先月、米国バイデン米大統領はキーウを電撃訪問し、ウクライナのゼレンスキー大統領に戦闘車両数千両の提供などウクライナ支援を約束した。その1週間後、こんどはイエレン米財務長官がキーウ(キエフ)を訪問した。
ウクライナのゼレンスキー大統領やシュミハリ首相らと面談したウクライナの経済財政の支援などを協議したという。
大統領がウクライナ支援を鮮明にしたのに、なぜ国務長官でなく国防長官でもない財務長官がウクライナを訪問したのだろうか。
おそらくは非軍事面からウクライナ支援の具体策を経済専門家として詰める狙いがあったのだろう。
イエレン財務長官はゼレンスキー氏との会談でウクライナに対する追加支援として、12億5000万ドルを供与すると表明した。
イエレン財務長官は経済問題のみでなく汚職が蔓延するウクライナ政府の査察を行ったのではないかと私は推察している。
彼女は経済のみでなく政治学にも通じているから政治姿勢(とくにモラルとカネの問題)を把握するのに適任であろう。ウクライナ独立以来、民主化の遅れに絶望して多くの優秀な若い世代がアメリカ、ドイツなど民主国に脱出してしまったウクライナの人材困窮については以前ブログに書いた。


ロシアのウクライナ侵攻開始から1年となった2月24日、米政府は総額20億ドル規模の対ウクライナ軍事支援を新たに表明したが、この1年間で米国の支援総額は320億ドルを超えた。この膨大な支援額については米国内で懐疑的な声が上がっている。ウクライナ勝利に向けて、時間と支援の競争でウクライナ破局の前に競り勝てるはずとバイデン政権は読んでいたのだろうが、戦況は一向に先が見えずこのままでは共和党の反発が増し政権運営に支障をきたし来年の大統領選への負の影響も懸念される。そこで2月末にウクライナを訪問したバイデン大統領はゼレンスキー大統領に戦争終結を説いたのではないだろうか。


いっぽう同盟関係にあるNATOだが必ずしも米国と一枚岩ではない。
ウクライナ侵攻から3か月後、EU各国民の意識調査「ウクライナ戦争の責任はだれにあるか」(Who is
most responsible for outbreak in Ukrine?)を民間シンクタンクの欧州外交評議会(ECFR-European Council on Foreign Relations)が行った。その結果は以下の通り。(数字はパーセント)
       「ロシアに責任あり」   「ウクライナNATO、USに責任あり」
 フィンランド     90            5
 英国         83            5
 ポーランド      83            10
  (略) 
 ドイツ        66            20
 フランス       62            18
 イタリア       56            27           
またポーランド勢で41パーセントが「ロシア勢を打ち負かすことが最優先事項である」としているのに対し、ドイツ勢ではこれが19パーセント、イタリア勢では16パーセントにとどまっているなど、政府姿勢に加えて国民レべルでも認識の違いが大きいことがわかる。ECFRはポーランド勢とドイツ、イタリア勢の姿勢の相違は 「Justice とPeace」という理念で解説している。JusticeとPeaceとはまさに今回のウクライナ戦争の本質を言い当てたものだと私は思う。



ウクライナ戦争から一年経過した本年2月22日ECFR世論調査によると、アメリカ(カッコ内の数字はEUの主たる理由)がウクライナを支援する主な理由は何かという質問に対して、ウクライナ国土の保全 16%(14%) ウクライナの民主主義を守る 36%(16%)アメリカの防衛 15%(22%) 西欧の防衛 14%(26%)と報告している。
これを見るとウクライナの領土保全という大義に関心の低さが際立っている。また日本の論調と異なりアメリカ、西欧それぞれ「民主主義を守る」、「防衛」のためのウクライナ支援であるという意識の希薄さが目立つ。ウクライナ戦争から一年を経過し、ウクライナ戦争への関心とともにウクライナ支援の意義も目的さえも薄れてきているのではないだろうか。アメリカもEUウクライナ・ファティーグに陥っていると思う。

 

いずれウクライナ戦争は終わる。そこでウクライナ戦争終了後の世界はどうなるのかである。

昨年の国連総会で次のような決議案が採択されている。「安全保障理事会常任理事国が拒否権を行使した場合、総会会合を開いて説明を求める」ウクライナに侵攻したロシアが拒否権を行使し自国への非難決議案を廃案に追い込んだことから、拒否権行使の説明責任を常任理事国に負わせようとする機運が加盟国の間で高まったためであろう。

採択された決議は、総会議長が、安保理で拒否権が行使されてから10日以内に総会会合を招集し、行使した国に説明を求めると定める。説明は任意で出席も強制できないが、今後は安保理の理事国ではない国々が総会議場で拒否権の乱用を批判できるようになった。

決議案作成を主導したのはリヒテンシュタイン。「平和と安全は全ての加盟国の問題だ。拒否権のない多くの国の声を世界に知らせることが目的だ」と提案理由を述べた。決議採択後、メキシコ代表は「国連総会は発言権を得た。国連の強化に向けた重要な一歩だ」と述べた。今まで国際紛争の対応については安保理事国の拒否権に世界は悩まされてきた。今回の決議案でこの問題が簡単に解決できるとは思えないが国連改革に向け一歩前進であるとおもう。この提案が日本など国連の主要国ではなく小国のリヒテンシュタインによってなされたことは、ウクライナ戦争終結後の世界動向を占うものかという気がする。 またECFRは次のような世論調査の分析をしている。西欧に限らず世界中の人は米国が主導してきたリベラル秩序は消滅していくと考える。逆説的に言うと、ロシアの侵攻により新規に結束した西欧は米国が主導してきた国際化の復活を意味するものではない。米国の世界的なスーパーパワーがこれから10年継続すると考えるのは、米国では9パーセント、EUでは7パーセント、英国では4パーセントの人だけだ。そして世界の両極化がまた冷戦時代と同様にやってくると多くの人は推測する。両極は米国と中国だ。しかし、西洋(EU、US)以外の国民は両極化ではなく分断化がこれからの世界秩序となるだろうと信じている。非西洋の中国、インド、トルコ、ロシアの人々は西洋は遅かれ早やれ一極化して強力になるが覇権的にはならないと予測している。

ロシア国民の61パーセント、中国国民の61パーセント、トルコ国民の51パーセント、インド国民の48パーセントがこれからの世界秩序は多極化するか中国(または非西洋国家)が規定していくだろと予測する。なんとこの予測は米国では37パーセント、英国では29パーセント、EUでは31パーセントの支持を得ている。
西洋が予測する米国と中国の両極化に向かい重要な役割を果たすのはインドとトルコと予想される。


戦争と平和

「ひとはなぜ戦争をするのか」という本が20年以上前に刊行されています。

内容はアインシュタインフロイトの戦争をめぐる書簡交換ですが、90年前の

両偉人の意見交換はこの問題をじっくりと考えるには大変参考になります。

 

フロイドの「生の欲動」と「死の欲動」という個人の精神分析から得られた発想、

それをベースにした権力と権威が結託した国家暴力論、それが戦争の原因だとフロイトはいいます。

フロイドによると人間には死の欲動(破壊本能)が備わっておりそれを取り去ることはできない。

では戦争を防止する方法を果たしてあるのか、フロイドは一つの答えとして死の欲動に対抗する生の欲動に訴えかけることを提案します。

生の欲動すなわちエロスの欲望の表れなど人間の間に感情的な絆を作り出すものはすべて戦争防止に役立つとして二つの例を挙げます。

一つ目は愛する対象との絆、二つ目は同一化です。

一般的に文化的に洗練されてない人ほど差別主義者になりやすいと言われます。

異文化を理解することは文化の多様性を理解することでもあります。

それを充分に理解できれば異文化の人に対してもいたずらに偏見を持ったりしないし、

さらに言えばたとえ異文化に同一化することで共感しやすくなります。

それが文化の能力に期待することであり、文化は死の欲動の発動自体を抑える働きがあと指摘しています。

文化と文明の違いについて文明は科学技術的なもので文化はどちらかと言うと人文的な知識全般を指すもの。

文明の発達はむしろ人を好戦的にしている面もあります。

軍事産業の発展や大量破壊兵器の開発などは文明の帰結でこれらは

死の欲動に過剰な力を与えてしまったともいえるかもしれません。

 

また有名な中井久夫の下記の論考も参考になると思います。

「戦争は進行して行く有期限の過程である。平和は状態である。」

一般に過程は理解しやすくビビットのあるいは理論的な誇りになる語りになる。

これに対して状態は多面的で名付けがたく語りにくくつかみどころがない。

一般に戦争には自己収束性がないから戦争の準備に導く言論は単純明快簡単な論理構築ですむ。

人間の奥深いところ人間の生命感覚にさえ訴える誇りであり万能感さえ生むものであり戦争に反対して

この効用を損なうものへの怒りが生まれ違い感さえ生じる(中井久夫

 

そして「力には力」「武力なき外交の無意味さ」論については、

斎藤環のいう「他者に投影された暴力性の問題」が参考になると思います。

自分は暴力的な人間ではないが他者がいまだ野蛮で暴力的である可能性がある以上、

こちらも対抗上武装して自衛するしかない。

 

このように相互に攻撃性を投影し合う状況が日本において安保法制化以降の

防衛増強論の展開を後押している大きな根拠であると私には思えます。

 

文化の目的とは常にいかなる場合にも優先されるべき価値として個人の自由、権利、尊厳が

必然的に導かれるものであり、私たちは世界史レベルで見ても最高度の文化的な平和憲法を抱いています。

フロイトさえも考えつかなかった戦争解決の手段すなわち戦争放棄の人間が燦然と輝いているのではないでしょうか。

 

いま私たちがやるべきことは異文化との「対話」だと思います。

有事と戦争ー建国の本義を忘れるな

ロシアのウクライナ侵攻に端を発して台湾有事や北朝鮮のミサイルなど我が国の国防議論が活発化しています。そこで気になるのは国防が即戦争に結び付ける論議が大手を振ってまかり通っていることです。

 

歴史を遡れば、 日本国憲法公布(1946年11月3日)直後の12月1日に民衆(国民)への憲法普及を推進するため帝国議会内に「憲法普及会」が組織されました。

会長は芦田均ですが、理事の横田喜三郎戦争放棄と平和について次のように語っています。

「日本は今まで自衛行為と称して実は露骨な侵略をしばしば行ってきた。満州事変がそうであるし支那事変もそうである。

従って、世界では日本の自衛ということはだれも信用しない。日本が憲法で紛争解決のために戦争は放棄するが自衛のための戦争は差支えないといえば世界はまた日本が満州事変や支那事変や太平洋戦争のようなことをやるつもりであろうと疑います。

・・・つまり自衛の戦争といえども今後は戦争をいっさい行わないつもりであるというのが一つの理由であります。

もう一つの理由は、今後の国際社会においては各国が自分勝手に自衛であるとかないとか決定して、自衛ならばやってもよいということは

計るべきものではない・・・。」

これが平和憲法の基本精神です。

 

その後、国体は菊の御紋から星条旗へと代わり実態的な植民地となっても日本は平和憲法を遵守してきました。

そしてアジア諸国をはじめ世界の多くの国々では日本(平和憲法)への尊敬の念を抱き続けていると思います。

戦争とは敵国憲法への否定行為であるとルソーは言います。

平和憲法(日本)を否定する戦争、そんな戦争を内外で煽る軍備強化論、このような(平和憲法の)精神のデフレスパイラルを是正する

国民的な規模の議論が必要でした。

しかし、政権維持のため政府の対米追従はその度合いを強めるばかりで遂に岸田首相は宗主国を訪問し日本は星条旗の盾のみならず矛ともなることを宣言してしまいました。 これで多くの国の信頼を失ったことでしょう。

満面笑みを浮かべたバイデン大統領は首脳会談後の共同会見には顔を見せませんでした。

用済みの悲哀を感じたのは私だけでしょうか。

 

社会が変わってしまう

「性的マイノリティ」への差別発言をした「首相秘書官」。
その発端は、「LGBT理解増進法」。
報道によると、岸田首相は、この法案により「社会が変わってしまう」と発言をしたようです。
国会では、「首相発言」をめぐり、野党が首相にその「真意」を問い糺していました。

 
こんなことで社会がかわるとは、なんとも呆れてししまいます。
どうもこの国の政治家は揃って「茹でガエル」状態のようです。
 
すでに社会は変わっているのですが・・理解増進をすべきは「政治家」の皆さんではありませんか。
 
「周回遅れ」も度が過ぎると、「国際社会」から見放されかねないと余計な心配をしたくなります。