bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

ポスト・トゥルースとフェイク・ニュース

ポスト・トゥルースの起源は、米作家Ralph Keyesの「The Post-Truth Era」(2004年刊行)といわれるが、環境問題誌「グリスト」の編集者、David Robertsが地球温暖化懐疑論者のキャンペーンに用いたのが起源との説もあるらしい。

定義は「事情をわきまえたうえで、人を欺くつもりで間違ったことを断言すること」である。

米国トランプ大統領の誕生により「ポスト・トゥルース現象」=「政治家がいくら嘘をついたとしても、国民の支持率には大きく影響しない」は日本を含め世界的な現象となり専制政治の出現を助長してきた。

 

フェイク・ニュースとは、意図せる(せざる)誤報または捏造報道のことである。

ニュースの取材側には事実の信憑性をどこまで検証できるか限界がある。報道が誤りか否かまた意図的かどうか、判断可能性はニュース受信側のみならず報道側でも疑問である。

さらに、ニュースの受信側には「メディアは真実を報道するもの」あるいは「メディアは善ではなく快を追求するものだ」といった思い込みが存在する。

フェイク・ニュース氾濫の原因を、*ブルムバーグは「人々は自分が無知であることに気づかなくなった。それゆえフェイク・ニュースに接しても本当かどうか調べようとする気を起こさなくなった」「本物を見分ける能力の過信」と指摘、ガーディアンは「フェイク・ニュースの拡散速度)が上昇、コストは低下して手間がかからなくなった」ためだと評している。

*MITのTwitter調査では、事実が伝播するのは1,000人程度であるのに比べ噓は多い時には10万人まで拡大する。拡散力は100倍、拡散速度は20倍としている。

 

「嘘でもいいから、クリックしたくなる話」を作れば大きな利益が生み出せる仕組み(フェイク・ニュースとポスト・トゥルース)、これが現代資本主義と政治の象徴であろう。

*(駒澤大学グローバルメディアスタデイーズ学部、柴﨑厚士教授の講義資料抜粋)

 

「真実はただ一つか

「真実」:起こった事柄に対する解釈 「真理」:確実な根拠に立脚する普遍的に正しい事柄

 

「群盲、巨象を評す」という言葉がある。大きな象の鼻や足などに触れた盲人の群れが、象というものは云々とそれぞれ評するがいずれも象の全体像を言い当てることはできない。鼻にふれた人にはその鼻が足に触った人にはその足が象の真実なのである。もし象の各部にそれぞれ触れた盲人が10人いれば、真実が10あることになる。

「本当の色は存在するのか」

ある色を見て「赤」という人がいれば「ピンク」や「オレンジ」という人がいる。

人は「本当の色が一つある」という発想でものを見て、間接的な情報やイメージで事物を判断しがちである(いわゆる先入観、偏見)

 

真実は百面相であるにもかかわらず、人は真実の前提として、「正しい真実はただ一つ」と考える。それゆえ、フェイクでないニュースや正しい真実という本物が存在するという前提に立つからこそフェイク・ニュースもポスト・トゥルースも成立することになる。

 

この世の中には真実はいくつも存在し、実際にはすべて真実なのである。

真実とは、実はグローバルな*想像共同体が新たに生み出す虚像なのかもしれない。

 

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「フィルター・バブル」

  ネット利用者個人の検索履歴を学習・分析して、関連性が高いと推測される情報が優先的に表示される。利用者の志向・行動傾向に合わない情報は隔離され、自身の価値観や考え方のバブルの中に孤立する情報環境。

 

「エコー・チェンバー」

  SNSでは自分の興味・関心事に沿ったユーザーをフォローする。

結果的に、SNSで意見を発信すると自分に似た意見が返ってきて自分の意見が広く支持されていると感じてしまう現象。