bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

憲法記念日に思うこと

憲法記念日に思うことは毎年のように同じことだ。

一つは、我が国は名目だけは独立国家というものの未だ占領下にある永久敗戦国であるということ。

もう一つは、そのような状況を変革しない限り憲法改正になんの意味ががあるのかということである。

憲法にまつわる本質的な問題点と第9条がらみの戦争論を記述する。

 

憲法の実質的上位法、日米地位協定) 

日米地位協定は1960年に締結されたが、その前身は日米行政協定で1952年2月に結ばれている。それは、半年前にサンフランシスコ講和条約が結ばれ日本が名目だけは独立国となったものの敗戦後の錯綜した政治・社会的状況のなか密かに外務省庁舎内で締結されたものだった。その内容は「独立後の日本ではGHQ が在日米軍になり替わった」と解釈できるようなものである。

 

この実態が明確になったのは、1959年に最高裁が判決放棄をして在日米軍治外法権を認めた判決である。つまり日米地位協定憲法の上位法であることを最高裁が皮肉にも裏書きした判決を下したのである。

 

日米地位協定に基づき日本の官僚と米軍は毎月打ち合わせ協議をおこなっている。主体は日米合同委員会という名前だが、日本側代表は外務省北米局長で防衛大臣でも外務大臣でもない。なんとも不思議に思えるが実は公務員法トリックといわれる憲法第15条が鍵である。これについては長くなるので省く。

 

いまだ敵国条項の対象国である日本

国際連合憲章は1945年10月24日に発効した国際連合の目的を達成するための国際条約だが第53条、第107条には敵国条項(enemy state clause)の規定が存在している。

 

この条項の対象国は第二次大戦中に連合国の敵国であった国すなわち日本、ドイツ、イタリア、ブルガリアハンガリールーマニアフィンランドの7カ国だが日本とドイツを除く5カ国は大戦中に枢軸国側から離脱しており実質的な対象国は日本とドイツである。

 

条項の主旨は、条項対象国が戦争結果の確定事項に違反し侵略行為を再現するような行動等を起こした場合には、国連加盟国や地域安全保障機構は、国連憲章51条に規定された安保理の許可がなくとも当該国に対して軍事制裁を課すことができるとしている。

 

第53条〔強制行動〕  

1.安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記の地域的取極又は地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。もっとも、本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。

2.本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。

 

第107条〔敵国に関する行動〕

この憲章のいかなる規定も、第二時世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国(例えば日本)に関する行動でその行動について責任を有する政府(この場合、アメリカ)がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。

(カッコ内注記は筆者)

 

 

憲法とは何か

西洋哲学に基づく法解釈と西洋文化の影響からであろうか、憲法を客体とし国民を主体とする二元論に立脚した論議が主流である。このような思考法は我が国の国民性からし

妥当なものとは思えない。

同胞330万人の屍を乗り越え戦火の廃墟から立ち上がった国民が築き上げたのが新憲法に基づく統治体制と社会の基本秩序でありそれが今の日本をもたらした。

しかるに、憲法議論となると統治体制の議論を回避して、草案は誰が作ったかとか第9条

などの特定条項が憲法三原則に優先するのは不思議なことだ。まるで国家ビジョン無くして場当たり的政策を積み重ね国益を見失う昨今の日本政府にも似て、まさに木を見て森を見ずのごとき本末転倒の議論である。

 

憲法を論じ改正を云々するならまず憲法とはいかなるものか、その定義を明確にすることが議論の前提条件であろう。

憲法とはなにか、それは「社会を成り立たせている基本秩序であり、この秩序に基づき承認された政治権力を支援、監視する機能」であると私は定義する。

憲法三原則といわれる基本的人権国民主権・平和主義、この三点セットの共通基盤となる思想は基本的人権であろう。

基本的人権とはなにか、それは「すべての人が生命と自由を確保しそれぞれの幸福を追求する権利、簡単に言うと人間が人間らしく生きる権利のこと」である。

この理念について、憲法第97条は次のように謳っている。

「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、

侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」

日本国憲法には《人類の多年にわたる》国家や民族を超えた人々の憲法観と人権思想が

《侵すことのできない永久の権利》として反映されていると思う。

 

基本的人権において自他二元論があり得ぬごとく、私たちは生まれた時から憲法に包まれ主客一体で暮しており、憲法と国民一元化された生態系として「私たちは日々、憲法を生きている」それが日本人の粋なのでもある。人間が人間らしく生きるために、腕力には腕力などとは呆れるほどの野暮なのだ。

 

(戦争とはなにか)

「戦争とは相手方の権力の正統性原理である”憲法”を攻撃目標とする」(ルソー)

日本に対する戦争とは、物理的な核戦争や領土侵略などではなく基本的人権への攻撃そのものである。当然そのような戦争は国際法違反となるだろう。

しかし、ロシアや中国そしてアメリカが国際法国連憲章に違反したとして日本を含む国際社会は何ができるだろうか。

ICC( International Criminal Court、国際刑事裁判所)に違反国の為政者を訴追すべきですが、訴追をしても裁くことは難しいであろう。なぜならロシア、中国そしてアメリカともに

ICC非加盟国だから。

また、国連において上記三か国はいずれも安全保障理事会常任理事国ゆえ自国への

いかなる非難決議案に対しても拒否権を発動して廃案にできる。つまり、いかなる総会決議をしようと法的拘束をかけることは不可能なのである。

 

第二次世界大戦後、アメリカの戦争はロシア同様に他国領土で行われたが、戦争犯罪を問われても不思議でない事例があったと思う。しかし、ICC非加盟国かつ国際連合常任理事国であるアメリカが訴追されたことはなかったと記憶する。それよりもアメリカは人道主義(民主主義)と民族自決主義(孤立主義)を上手に使い分けることで、国際社会の火の粉を避けながら民主主義の旗手として国際社会における覇権の道を歩んできたと思う。

その大きなバックボーンは国際連合第二次世界大戦戦勝国パラダイム)ではないだろうか。ロシアもそして中国も同様だ。国際的な免罪符つまり「法的拘束力の回避特権」を持った戦争ができるのだから。

 

 

日本国憲法施行直後における昭和天皇の行動

敗戦から二年が経過した1947年9月19日、宮内庁御用掛の寺崎英成はシーボルトGHQ外交局長を訪ねて次の昭和天皇の意向を伝えた。いわゆる「沖縄メモ」といわれるもので

次のような内容のものである。