bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

上田の近況

新幹線のホームから「OYO」という文字が目に飛び込んできた。上田駅お城口の横にあった長期滞在用の東急インがなくなり、インドのホテルチェーンOYOホテルになっている。OYOは既存ホテルの買取で急拡大し世界6位、東急から買い取って開業したものだろうか。

 


お昼の力亭はほとんど男性客でいっぱいだった。ところが若い二人連れの女性が二組、カウンターの左隣には女性一人、右隣に若いサラリーマン一人奥のテーブルに中年夫婦が一組。

なんと客の半数以上がうら若き女性客である。世代交代ならぬジェンダー交代だろうか。

 


海野町の商店街の上田デパートの横には11階建てのマンションが建設中だが、通りをはさんだ向かいに新たなマンションの基礎工事が始まっている。今度は13階建のようである。通学路であった商店街の面影が消えてマンション街になりそうである。

憲法と戦争

岸田首相は首相就任の直後から憲法改正言及し「今こそ改正を成し遂げなければならない。国民的な議論を盛り上げていく」と並みならぬ意欲を示しています。

私がいつも不思議に思うのは、憲法改正というと真っ先に話題に上がるのが、どうして個別条項でしかも第9条なのかということです。

「群盲象を評す」で憲法第9条について国民の多様な解釈と意見があって然るべきかと思います。

しかし、憲法を客体とし国民を主体とする二元論的な思考法は我が国の憲法に関しては妥当とは思いません。
戦火の廃墟から立ち上がった国民が同胞330万人の屍を乗り越えて築き上げたのが
憲法に基づく統治体制と社会の基本秩序でありそれが今の日本を作ってきたのです。

日本はデカルトの罠に陥ったのでしょうか、憲法改正の議論となると第9条のような特定条項が総論に優先して
議論の対象となるのは不思議なことだと思います。
まるで国家ビジョン無くして場当たり的政策を積み重ね国益を失う日本政府にも似て、
まさに木を見て森を見ずのごとき本末転倒の議論になりかねません。

憲法を改正するならまず憲法とはいかなるものか、憲法論とその定義を明確にすることが
議論の前提条件となる筈です。

憲法とはなにか、それは「社会を成り立たせている基本秩序であり、この秩序に基づき承認された政治権力を支援、
監視する機能」であると私は定義します。


憲法三原則といわれるのは基本的人権国民主権・平和主義ですが、この三点セットの共通基盤となる思想は
基本的人権だと思います。

基本的人権とはなにか、それは「すべての人が生命と自由を確保しそれぞれの幸福を追求する権利、
簡単に言うと人間が人間らしく生きる権利のこと」であると思います。

この理念については、憲法第97条に次のように謳われています。

「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、
これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、
侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」

このように日本国憲法には《人類の多年にわたる》国家や民族を超えた人々の憲法観と人権思想が
《侵すことのできない永久の権利》として反映されていると思います。

基本的人権において自他二元論があり得ぬごとく、私たちは生まれた時から憲法に包まれ主客一体で暮しており、
憲法と国民一元化された生態系として「私たちは日々、憲法を生きている」のです。

そして戦争とはなにか、「戦争とは相手方の権力の正統性原理である”憲法”を攻撃目標とする」(ルソー)
日本への戦争とは、領土侵略などではなく基本的人権への攻撃そのものなのです。

細々と述べましたが、「憲法ありて国家ビジョン無きこと」、これが憲法論議の前段階にしてかつ
国家の本質的問題だと思います。

待ちと期待の革命

二・二六の青年将校はおそらく事件当日に自らを革命の起爆剤へと純化させたのではないだろうか。貧苦の渦中にある国民に先駆けて自分たち先進的精鋭が決起すれば、広範な国民勢力は必ずや立ち上がるはずだと。
この思考は1960年全学連安保闘争に継承された。
社会党共産党・総評労組の既成勢力では革命を起こすことが出来ぬ、自分たち全学連社会主義革命の起爆剤となるしかないと。しかし国民は蜂起せず、結果は六・一五の国会突入、警察機動隊との実力闘争に敗れ去った。
青年将校磯部浅一天皇への憤怒と怨嗟を三島由紀夫は「英霊の声」とした。
一一・二五、三島由紀夫は自らを新昭和維新起爆剤に模し決起した。
しかし共に決起を期待した自衛隊員はバルコニー上の彼を野次と怒号で罵倒し倒した。
絶望した三島は市ヶ谷台上の露と消えた。
かくして「待ちと期待」の革命の夢はこの国から消滅したのである。
日本革命の宿命を冷ややかに見つめほくそ笑んでいるのは誰か。

アメリカはなぜウクライナを軍事支援しないのか。

ロシアのウクライナ侵攻に関する米国の対応を見ていますと、米国はもはや民主主義の旗手でもなく社会正義の使者でもあり得ません。米国が行ってきたベトナム戦争に始まる他国の戦争や紛争への積極的な介入は、すべて失敗でした。このために多くの若者を失い多額の国費を費やしました。米国民はそんなものは国益にはならなかったと悟り、いまや米国は自国の国益を第一義とする普通の国家に戻ったように見えます。

ウクライナ侵攻を目撃し恐怖に駆られ秘かに怯える国々が米国の原油天然ガスミサイル防衛システムを買うことになるでしょう、トウモロコシや小麦などの穀物についても競って米国からの買い付けに走ることでしょう。

ウクライナ支援は口先だけ、ロシアへの軍事攻撃など一切支援しない、つまり何もしないことが米国の国益になるのです。

国際連合とは戦勝国家の免罪符か。

2月24日、ロシアは突如としてウクライナへの軍事攻勢を開始しました。プーチン大統領は「我々の抗議に対してNATOは東への拡大を続けている」とNATOを非難し、ウクライナに対して現政権の退陣・非軍事化・中立国化(NATOへの非加盟)を要求しています。ウクライナに進撃したロシア軍は民間施設などへの無差別攻撃を行い多数の民間人が犠牲になっています。世界社会から沸き起こる避難や欧米各国の経済制裁にもかかわらずプーチン大統領にはウクライナ侵攻を停止する気配は一向に見られません。

このような事態に対処するのが国際連合の役割です。

国際連合では緊急特別会合が開かれロシアを非難しロシア軍のウクライナからの即時撤退などを求める決議案が賛成多数で採択されました。しかしながら、この決議はロシアに対するする強制力を持つものではありません。

国際連合には6つの機関がありますが、そのうちで事実上の最高意思決定機関は国際連合安全保障理事会( United Nations Security Council、UNSC)であり、この機関のみが世界平和と安全の維持に主要な責任を負い、法的に国際連合加盟国に拘束力を持つ決議を行うことができるのです。

安全保障理事会は、5か国の常任理事国アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国)と加盟国の中から総会で選ばれる10か国の非常任理事国の計15か国から構成されます。常任理事国は、手続き事項を除く全ての事項に関する安保理事会の議案への拒否権を有しています。したがい安保理常任理事国のうち1か国でも反対すれば、議案は成立しないこととなります。先の安全保障理事会ではロシア非難決議案は否決されました。常任理事国のうちロシアが反対したからです。

国際連合(United Nations)は、その前身である国際連盟第二次世界大戦を回避できなかった反省から、平和を維持し戦争を防ぐ仕組みを実現させるべく発足した国際的な組織ですが、発足時から主導権を掌握していたのはアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の五か国です。いうなれば第二次世界大戦戦勝国連合を中心にしたものだといえます。ところが戦争勝利に向けて団結したものの戦争が終わると当初から思惑の異なる五か国は各国が勝手な主張や行動を展開し、いまや国際連合は世界平和を維持するどころか世界の分断を容認するかのごとき国際機関となってしまいました。総会では平和を希求する人道的な決議がなされても安全保障理事会では常任理事国から拒否権が発動され、免罪符のごとき存在価値しかないとも思えます。今回のウクライナ侵攻という国際社会を無視した暴挙というべきロシアの行為は、国際連合の偽善的性格を熟知した戦術であったと思えます。

国際連合とは世界平和を維持、促進する機関ではなく、第二次大戦の戦勝主要五か国の同盟であり戦後の国際社会を統御する五か国の独断専横の免罪符に過ぎないものかもしれません。

 

 

 

ウクライナ支援策。

ウクライナの惨状を見るたびに何もできない我が身に焦燥感と罪悪感は日々募るばかりです。

同様のお思いをしている日本国民の方は相当な数に達するのではないだろうか。
一人では微力でも国民の願いが一体になると大きなものになるのではないだろうか。
そこで、考えてみた。

ふるさと納税ウクライナ版に切り替えて、返礼品は無いが寄附金の全額を税控除対象とする、こんな支援策を政府が実施してはどうでしょうか。
世界社会の一員として、世界は全人類のふるさとだとして、日本の意思表示にもなると思います。

なぜロシアはウクライナに侵攻するのか

どう考えても一方的で不条理としか思えないロシアのウクライナ進攻。

その背景について、大ロシア主義(昔のソ連邦)の復活だとかプーチンの誇大妄想とか様々な議論がなされていますが、地政学的な見地からの意見は見られません。

そこで、独断と偏見による地政学的な解説を以下に試みます。

 

地政学の泰斗といわれる英国のH.Jマッキンダーいわく、

「Who rules East Europe commands the Heartland

  Who rules the Heartland commands the World-Island

  Who rules the World-Island commands the World」

*World-island とは南北アメリカを含む小さな島全部(新大陸)を除く旧世界のこと。

これは地球表面の9/12は海、2/12が旧世界大陸、その他が1/12という理解に基づく。

Heartlandについてマッキンダーは次のように述べている。

「ユーラシアの北の部分であり、主としてその内陸の部分、北極海の沿岸から大陸の中央の砂漠地帯に向かって延びており、

バルト海黒海とのあいだの大きな地峡がその西側の限界になっている。」

 

この概念では地図上で明確に限定することはできないが、バルト三国ポーランドからベラルーシスロバキアチェコハンガリー

ルーマニアウクライナを包摂するものといえる。

とくにバルト海黒海を結ぶ最短ルートはポーランドウクライナまたはバルト三国ベラルーシウクライナを貫く直線となる。

言うなれば、帰属不明のベルト地帯であり実在する場所というよりも相対的な概念というべきかも知れない

ヒットラーポーランド侵攻で世界大戦の幕を開けると、即座にソ連ポーランドに侵入、その裏で両国が結んだ独ソ不可侵条約とは

マッキンダーの呪縛のなすものともいえる。

またナポレオンはロシアに向かいハートランドを横断し「国の地理を理解すれば、その国の外交政策がわかる」といったといわれる。

 

ヒットラーがその「生存圏理論」に心酔したドイツの地政学者K.Eハウスホーファーは次のごとく語っている。

「国境は生ける有機体であるから国境の安定を求めるのは衰退に向かう国だけで、活力に満ちた国は道路を建設する」

 

「条約やその他の取り決めで決められた国境をただ地図の中に見るのではなく、その不変の地形的要素からどのようにして

発展の契機を読み取るか、文字通り方法手段としての地図の読み方を長年にわたり訓練されてきたのがドイツ人である」と

マッキンダーはいう。

 

地政学とは、「国家戦略を決定するために国が考慮に入れなくてはならない外部環境についての研究である。

その環境とは生存と優位を求めてともに争う他国の存在である。つまり人間の分断に地理がおよぼす影響のことだ」

(R.Dカプラン、米国ジャーナリスト)

 

国民国家、日本の拠り所は国土のみであるという日本人には以上のような論理は容易に受け入れられないでしょう。