bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

アフガニスタン政権崩壊

報道によると、 アフガニスタンでは反政府勢力のタリバンが首都カブールを包囲して大統領府を占拠、ガニ大統領は国外に脱出して同政権は事実上崩壊したとのことです。

タリバン反攻を加速させた直接的な原因はアフガニスタン駐留米軍の撤退にあるようです。

いっぽうバイデン大統領は駐留米軍の撤退は「責任ある撤退」と判断の正当性を演説でアピールしています。

しかしながら、9・11テロへの報復としてアメリカが国際的な批判にもかかわらず勝手に戦争を始めて駐留し、勝手に退去していく全てアメリカの自己都合にしか見えません。オバマ政権時のバイデン副大統領は駐留米軍の増員を推進して10万人もの派兵を行ってます。

そもそも、アメリカ軍のアフガニスタン駐留目的は何だったのか、この時点からの経緯の説明がない限り、バイデン大統領の演説は前大統領と変わらぬアメリカ・ファーストに過ぎないように聞こえてきます。

 

歌謡曲にみる汽車の意味

 汽車には、人や物の運送を担う公共交通機関としての役割のみではなく人の喜怒哀楽を誘引する不思議な力があると思う。汽車は同じ鉄路を毎日往復するのに、人は一期一会の思い出を汽車に託して記憶する。幼い日、田舎道が東京に向かう鉄道と交差する小高い丘の踏切で目の前を通過していく汽車を見るのが楽しみだった。誇らしげに汽笛を鳴らし薄暮のなかを走り去る列車の赤いランプに、なぜかもの悲しさを覚えたものである。春日八郎が唄う「白い夜霧の あかりに濡れて...」(「赤いランプの終列車」作詞 大倉芳郎 作曲 江口夜詩)がいつもラジオから流れていた。その哀愁を帯びたメロデイーが私を虜にしたのだろうか。以来、ことあるごとに歌謡曲と汽車を関連付けて考えるようになった。そして歌謡曲に唄われる汽車とは「別離」と「望郷」のシンボルではないかと思うようになったのである。その背景を説明したい。

 

「別離」の象徴としての汽車がある。

別離には多様な背景を持つ別れがある。予め別れの時期も対象も定められている別れが卒業である。<二度とかえらぬ 思い出乗せて>(「修学旅行」作詞 丘灯至夫 作曲 遠藤実)と汽車の旅でクラス友達と別れていった。いっぽう戦前には強制された別離があった。突然の召集令状による家族、友人、恋人との予告なき別れだ。駅頭で夫を送り出した新妻は<いまごろあたり汽車を降りてか>(「明日はお立ちか」作詞 佐伯孝雄 作曲 佐々木俊一)と抗えぬ運命に涙した。戦後になると、焼け跡から復興した経済構造は第一次産業から第二・三次産業にシフトして農・漁村は窮乏していった。生活苦から農・漁村の若者たちは家族に別れを告げ<故郷の香りをのせて・・・就職列車にゆられて>(「ああ上野駅」作詞 関口義明 作曲 荒井英一)都会に流入した。そして若者たちは高度経済成長を支えて豊かな社会の構築に貢献した。やがて驚異的な経済の発展は<止めるあなた駅に残し 動き始めた汽車に ひとり飛び乗った>(「喝采」作詞 吉田旺 作曲 中村泰士)と、男性社会への訣別を告げ独り立ちする女性を輩出していった。しかし、過度に経済偏重した社会は、健全な人間関係を損傷していった。恋に真剣に向き合う人は<文字のみだれは 線路の軋み>(「愛の終着駅」作詞 池田允男 作曲 野崎真一)と恋人と決別し自分探しの旅に出かけ、社会のしがらみを捨て感情に素直に生きる人は、<たとえひと汽車おくれても すぐに別れはくるものを わざとおくらす時計の針は>(「女の宿」作詞 星野哲朗 作曲 船村徹)と逢瀬のひと時を切り刻む汽車の運行の正確さを恨み、時計を辛い浮世に見立て針を遅らせるのであった。所詮、この世は虚構に過ぎぬと社会に背を向けた人たちの決意と諦観とが汽車の運行に託され唄われているように思える。 

 

「望郷」(物理的な出生地のみでなく精神的な逃避先の意味をも含む)の表象としての汽車は、ひたすら「北」を目指す。

かって北国の農業従事者は農閑期になると都会に出稼ぎに出掛けた。そして春がくると故郷行きの汽車に飛び乗り<いつもじょんがら 大きな声で 親父(おとう)唄って 汽車からおりる>(「津軽平野」作詞作曲 吉幾三)のであった。人は悲しみに出会い不遇にかこつと何故か北に向けて旅立つようだ。そんな人たちが乗る汽車が北国行きの夜汽車だ。華やかさの裏の空虚な都会生活に疲れ北に向かう女がいる。<女がひとり 汽車から船に乗りかえて 北へ流れる>(「おんなの海峡」作詞 石本美由起 作曲 猪俣公章)<つぎの北国いきが来たら乗るの スーツケースをひとつ下げて乗るの>(「北国行きで」作詞 山上路夫 作曲 鈴木邦彦)。また大志を抱いて都会に出たものの夢破れ故郷に帰る若者も北に向かう汽車に乗る。<窓は夜露に濡れて・・・北へ帰る旅人ひとり涙流れてやまず>(「北帰行」作詞作曲 宇田博)。年の瀬、思いつめたあげく北国行きの夜行列車に飛び乗った女。その一途な思いは窓外の冬景色を取り込んで一片の風景画と化していく<暦はもう少しで今年も終わりですね・・・ 逢いたくて夜汽車乗るデッキの窓に・・・追いかけて追いかけて・・・雪国>(「雪国」作詞作曲 吉幾三)雪の中ひた走る夜汽車の振動と望郷の鼓動が激しく共鳴し悲壮なほどの哀切感を漂わせる。

 

 

 

 

ようやく謀略戦に勝った日本

7月23日に開幕した東京オリンピックは、日本の快進撃が続き既に過去最高の17個の金メダルを獲得しています。

心から日本選手の大活躍に大きな拍手を送りたいと思います。

 

そして、日本政府と招致委員会にも乾杯です。あの戦争で大きな敗因となったのが謀略戦の失敗でした。オリンピックの招致合戦では、嘘八百の与太話を並べ謀略戦のリベンジを果たしたのですから。

 

2013年、オリンピックの招致プレゼンテーションで安倍前首相は「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」と公言しました。また招致委員会が作成した立候補ファイルには「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と明記されました。

 

2021年の現時点でも福島原発の汚染水などの対処さえままなりません、当時は多くの被災者の方が住むところさえなく漂流状態でした。また真夏の東京がスポーツにはまったく向かぬ気候であることは、マラソンが札幌に会場を移したように日本人なら誰でも周知のことです。

このようなデタラメな話しを世界に向け発信してコロリと信用させ世界のアスリートを炎熱地獄に呼び込んだ策略は見事なものだといえます。

想定外の新型コロナ感染という助っ人も登場して海外から来日したアスリートには目に見えぬ不安感と脅威を与えていると思います。

日本の快進撃の影の立役者ともいうべきは見事な日本の謀略ではないでしょうか。

「民主主義と七不講に近づく日本の政治」

最近の世論調査によると各種選挙の投票率は50%を割るのが通常であり、いわば選挙権を有する国民の半数が政治参加をしない状況のようです。

つまり国民の半数に過ぎない参加者による多数決決定主義、その結果がすなわち全国民の意思表示だと政治断定されるのが今の日本の実態です。どう考えても納得のいかない、この状況に何ら疑問も異議申し立てもないまま承諾されているのが日本社会の不思議さは何でしょう。それは、世界が普遍的価値としている民主主義その形態さえ保てれば政治の失敗に対して国家あげて誰も責任を負わないー民主主義免罪符ー(無条件敗戦国家のルサンチマン)が原因の一つだと思います。(アメリカからの押し付けということで憲法についても同様の発想が横行しているように思います)私はこの問題の本質は代表制民主主義にあると思います。これは近代民主主義が当初から抱えてる問題です。国民主権と言いながら、選挙が終われば当選した代議員のための民主主義にさま変わりで、国民は政治的な政治への関与権を喪失してしまいます。これでは、ルソーが言うように「国民が自由なのは、議員を選挙する前だけのことで、議員が選ばれるやいなや国民は奴隷となり無に帰する」(原書のイギリス人を国民に置き換えてます)ではないでしょうか。

ちなみに、「日本の代表制民主主義の仕組みを信頼してるか」という言論NPOが行った世論調査(2019年)では、「信頼している」と回答したのは全年齢層で32.5% 20歳代は20.2%  30歳代は14.2%となっています。

したがい多数議席を獲得した党派は、国民からは全面的な信頼を得て執行権の付託を獲得したものと政権を掌握して国政の運営にあたります。そのため独断と主観に過ぎぬ判断であっても、客観的で合理性に沿ったものだと勝手に思い込んでしまいます。ここから政府の専制的政治が始まり、諦めのいい国民性はやがて専制政治を既成事実化してしまうのではないでしょうか。

とすると、私たちは民主主義を声高く叫ぶほど皮肉にも民主政治とはほど遠い専制政治を助長していくのではないかと心配になります。

私たちは皮肉にも中国の七不講ならぬ自縄自縛の世界に入り込んでいくのでしょうか。


注)
七不講とは中国共産党が2013年に各大学に通達した言論規制いや焚書坑儒でしょうか。
人文系学問の自由が大幅に制限され、反抗する教授や講師が学生に密告されて職を失うこと多数のようです。

「七不講」とは、以下七つの口にしてはならないテーマのことをいうようです。
(1)普遍的価値、(2)報道の自由、(3)市民社会、(4)市民の権利、(5)党の歴史的錯誤、(6)特権貴族的資産階級、(7)司法の独立。

呆れたオリンピック開会式

安倍前首相の「アンダーコントロール」という東京オリンピックの招致スピーチ、この嘘っぱちに始まった今回のオリンピック騒動は腐敗まみれのまま開会式を迎えました。

 

やはりというより当然というべきだろうか、余りのお粗末さに私は途中でTVを見るのをやめました。

 

まずビックリしたのは冒頭の貴賓席入場シーンです。 天皇がバッハIOC会長そして菅首相小池都知事と同列で並んで着席させられたのです。 国民統合の象徴たる天皇が何ゆえにバッハや菅と並列なのか。いかに国際的な友好行事とはいえ国家の品格は尊重してしかるべきです。他国への歴史と文化へのレスペクト無くして何が国際行事たり得ましょうか。天皇には一段の上席を設けてしかるべきでした。

 

また今回は黙祷の時間が設けられていました。

「コロナに打ち勝つ証」とするオリンピックだという菅首相大義から、世界のコロナ感染死者に対して黙祷は捧げられるものかと思いきや、ミュンヘンオリンピックのテロ犠牲者に捧げられるものでした。

これはよいとしても、当初から「復興オリンピック」を掲げた経緯からして、3・11犠牲者への黙祷があって然るべきだったと思います。

日本はここまで国家の主体性を喪失してしまったのでしょうか。

 

ことオープニングセレモニーに至っては、為政者やJOC幹部の知性と教養の欠落をただいたづらに見せつけらるだけでした。日本の伝統、文化の表層だけのパフォーマンスは単なる上から目線のパッチワークであり、日本文化への本質的な理解など微塵も感じられないものでした。政府とJOC首脳らが、歴史、哲学、芸術などのリベラルアーツを勉強していないからこんなことになるのでしょう。

思えばモリカケ騒動から日本学術会議の会員任命拒否に至るまで政府首脳はリベラルアーツを黙殺し続けてきたのです。お粗末な開会式はそんな堕落した政府とそれを黙認してきた怠惰な国民にとり当然の帰結といえるものでしょう。

 

ただ一つだけ救いに思えたのは、天皇の開会宣言でした。前回東京大会にあった「祝い」の文言は、今回は入れなかったことです。 国民生命が脅威に曝されるコロナ禍に見舞われ開催に異議を唱える国民の少なからぬ声のなか強行開催ともいえるオリンピックです。この事態を踏まえた、国民統合の象徴として適正なメッセージであったと思います。

 

注) 開会宣言は国際オリンピック委員会IOC)の五輪憲章で、英語と仏語で文章が定められている。日本語の表現が変わった部分は英語では「celebrating」で、日本オリンピック委員会JOC)が公開している「五輪憲章2020年版・英和対訳」では「祝い」とされている。  同時に、この冒頭には「英文が原本となります。本憲章の英文と和文に差異がある場合には、英文が優先されます」との注意書きもある。celebratingの今回の訳についてJOCは「論評できない」としている。(朝日新聞2011年7月24日)

令和三年夏の敗戦。

7月7日付け共同通信のまとめによると、新型コロナワクチンの住民接種の予約受け付けを停止もしくは制限している自治体は、少なくとも67市区町であり、その原因は国によるワクチン供給が7月から減少するためと報じています。
国内に供給源を持たない日本は海外からのワクチン供給に頼らざるを得ません。しかし新型コロナ蔓延に処する政府方針は当初から不明確であり世界のワクチン獲得競争に後塵を拝していました。そのため菅首相訪米の際にファイザー社のトップにかけ合いワクチン供給を要請したという報道をあたかも供給量は確保されたごとく錯誤した国民に問題はあるというものの、その幻想に悪ノリして誇大宣伝をした首相と現実の供給量に見合う接種態勢を敷けなかった政府の責任は重大です。集団そして職域接種と首相自ら陣頭指揮を取り憲法違反とも思える(議会承認を経ず)自衛隊を出動させてまで接種態勢拡大を図った、しかしその裏で実はワクチンがどれだけあるか把握していなかったというのですからまったく呆れてしまいます。


そもそも、政府は当初から新型コロナ対策には
消極的でした。その理由は東京オリンピック完遂のため、なんとか新型コロナ蔓延を問題にせず穏便にしておこう、できればなんでもないと闇に葬ってしいたい政権(都知事を含め)の保身維持願望が国民の健康維持より優先されたためと思われます。このような国民不在で自己保身優先の政府対応は10年前の3・11と福島原発事故に対する弥縫策の小出しによる国民愚弄策に類似しています。その象徴的な出来事が、苦境に喘ぐ被災者が数万人に達し汚染水が積み上がる中で、安倍前首相は東京へのオリンピック招致スピーチで、この問題は「アンダーコントロール」だと世界に公言したことです。
そして今回の新型コロナ蔓延下でのオリンピック強行という政府対応の根底には、オリンピックを未だに美化する日本国民の心情とアスリートへの同情傾斜という情緒的国民性を利用してオリンピックを契機に経済活性化と国民精神高揚を図るパンとサーカスならぬ旧態然の統治策で政権の維持確保を図る目的があるためと思われます。それにしても、国民の生命とオリンピックという比較対象にもなり得ない二つの事象を両論併記で思惟する政府とは何を目的にしているのか判断に苦しみます。本当に人道にも悖る国民を蔑ろにした話だと思います。

ここで想起するのは、あの敗戦で明確になった失敗の本質です。
指導者の独断と偏見はいつの世も変わらぬものの、敗戦の大きな要因は戦略と兵站の失敗であったと思います。

昭和16年、将来の日本を担うエリートを集めた総力戦研究所が出した対英米戦の予想は、奇襲作戦を敢行し成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れるというものでした。これに対し東条陸相は「机上の空論、戦争はやってみないと分からぬ」と切捨てました。また同年、軍官財学の日本の英知を結集した秋丸機関の研究成果「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」は、勝利は覚束ずどこで戦争を止めるかが問題で戦争終結への基軸は西進戦略であるとの結論を提示しました。
ところが大本営の最終決定は海陸両軍の面子を立てた東西への両面進出策となり、もとより乏しい兵站の崩壊を招き自ら墓穴を掘ることになりました。

あの戦争は国家戦略も思想もなく明らかに兵站を無視した目的なき拡張戦術の累積でしかなかったといえます。日本軍は昭和17年4月までに東アジアほぼ全ての地域を支配下に収めて開戦当初の占領予定地を手に入れました。ところが、この段階で初めて日本軍は頭を悩ませたのです。なぜなら次の作戦つまり目的がないのですから。いっぽう日本海軍は、石油神話をでっち上げ無謀な東進策で真珠湾攻撃を敢行し一応の戦果をあげましたが肝心の米航空母艦の主力部隊を逸したのです。その失点挽回の急遽戦術が米航空母艦部隊を殲滅すべく計画されたミッドウェイ作戦でした。しかし、暗号が一部解読されていたこともあり指揮官は戦局を見誤り致命的な惨敗を喫しました。
本来ならこの時点で戦争継続の見直しなり終結の画策が出ると思いきや、海軍は大惨敗をひた隠しにし、陸軍は比島陥落後の米国動向を推測できず兵站を無視して更なる南下策を強行しました。
さらに軍指導部は戦闘能力と戦果を疎かにして情緒的妄想を拡大して勝利よりもただ戦うこと、それが勝利を招くすなわち軍首脳陣の保身とばかり戦線の実情を把握せず前線部隊に無謀な戦闘を指示し物資補給も援軍も行わず叱咤激励する精神論のみを盾に大本営発表という権威ある虚報を流し続けました。
そしてガダルカナルインパール戦をはじめ戦死者の半数近くが戦死ではなく病死や餓死という悲惨な終末を迎えることになりました。まさに戦略の失敗と兵站軽視の結果といえると思います。

それにしても、あの戦争と今回のオリンピックは当初の大義からのすり替えまで酷似しています。
あの戦争では「自立自存」の戦からアジア植民地の解放を目指す「東亜共栄圏」確立へ。今回のオリンピックでは「福島復興」から「人類がコロナに勝利した証」へと赤面せざるを得ないほど空虚な大言壮語ですが、まったく国家ビジョンのない機会主義の政治を裏付けているものと思います。

専門家の意見は都合のいい所だけをつまみ食いひたすらオリンピック遂行とワクチン接種の拡大で政権維持に走る政府、その「台本」営発表を垂れ流すマスコミ、その間隙を縫い甘い汁を吸う大企業と既得権益層そして貧乏くじを引かされるだけの国民。
無能な為政者と保身優先の政府がもたらす戦略と兵站の失敗により、泣きをみるのはいつも私たち国民です。
あの敗戦を終戦記念日と言い換え失敗の反省も総括も行わずここまできてしまった永久的敗戦国、日本。
いまそのツケが回ってきています。
令和三年夏の敗戦。
私たちは今度こそ覚悟して失敗の総括を行うべきです。

 

 

コロナ禍のオリンッピク開催

東京五輪パラリンピック組織委員会が会場で観客への酒類販売を認める方向で検討していたが、
一転して見送りの方向を固める迷走ぶりを見せた。」
今朝の新聞やTVではこのような趣旨の報道を一斉におこなっていま
 
新型コロナの蔓延以降、政府は厳しい酒類提供の自粛を関連業界に要請してきました。
しかし、いまだ収束の目途が見えない状況で飲食業界は苦境に陥ったままです。
それにも拘わらず、オリンピックの観衆だけには酒類提供を許可するという政府の考えは
いままでの政府方針とはまったく矛盾するものです。
 
そもそも問題の本質は、コロナ禍においてかけがいのない人の命とオリンピックを天秤にかけるという
人道を無視した政府の優柔不断さにあったと思います。
その挙句がこのような迷走を招いたといえるのではないでしょうか。
よく言えば、あまりにもオリンピックを美化しすぎた政府、悪く言えば、カネまみれの政府、
で政策の中心に国民が不在だと思います。
 
東京に緊急事態宣言が出されてもオリンピックはとにかく開催するというIOCの強硬姿勢からは、
オリンピックの崇高な理念は消失して、いまやカネまみれの商業主義イベントに変質して
しまったIOCのホンネが見えたように思えます。
 
1964年の東京オリンピックは、当時まさに日本経済、社会が驚異的な成長と拡大の途次であり
日本選手の活躍とともに戦後日本の目覚ましい発展を自他ともに印象付けて、
国民の意気高揚に大きな貢献をしたものだと思います。
 
しかし、今回は社会状況もオリンピック自体の性質も大きく変化しています。
 
オリンピック開催まであと一か月となった今、開催は既定事実として受け入れざるを得ないとしても、
いまだにオリンッピク開催反対の意見が世論調査では半数近くを占め、
オリンピックがコロナ感染拡大を助長するリスクを多くの人が危惧していることを。
そして栄光に満ちた1964年東京オリンピックを神話化したままの精神状況で
オリンピックの商業化した本質を看過していてはならないと思います。
いずれにせよ政府迷走の尻拭いをさせられるのは私たち国民なのですから。