bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

「暗殺の森」映画評

 半世紀経過するもやはり感動の名作。 意外にも若い世代の女性が多く映画館は満員。 母性への嫌悪と同性への恋闕、富裕さゆえの虚無との葛藤に時代と悶える主人公、 それゆえ過去のあやまちからの逃避をファシズムに求めたインテリの悲劇。 テロ前夜のパリ、恋敵と女同士で舞うドミニク・サンダの絶望的な美しさ。 早朝の雪に埋もれた森の暗殺シーンは狂おしいほどに切なく愛おしい。 それは暗殺現場で主役を放棄したテロリストたりえぬファシストとしての悲劇ゆえか。 「卑怯者とホモと・・・人には反吐が出る」とテロ現場で吐き捨てたガストーネ・モスキンのセリフが重く心に沈殿する。2015/11/13

COP26と「新しい資本主義」

先日、気候変動問題に関する世界会議COP26が英国グラスゴーで開催されました。

この会議には日本から岸田首相が参加、2050年カーボン・ニュートラル達成への日本国の決意、そしてアジア諸国のエネルギー・トランジションに最大1000億ドルの支援を行う意向を表明しました。

 

ところが議長国の英国から事前に、石炭火力の廃止時期を表明するよう求められていたにもかかわらず岸田首相は何らこの件については言明しませんでした。そのためか環境NGOからは二年連続となる「化石賞」が日本に授与されました。

TVニュースによると、COP26会場の周辺には若者を中心に世界中から5万人を超える人が集まり、COP26は綺麗ごとを並べただけで失敗だと抗議の声を上げました。日本からも高校生、大学生などがグラスゴーに向かい会場入りする岸田首相に意見書を手渡そうとしました。しかし、聞く力をアピールする首相は彼らに一瞥を与えることもなく無言で通り過ぎました。その後の報道によると、首相従者の方が手紙を受け取ってくれたようです。

 

いっぽう、衆議院選挙で勝利した岸田政権は目玉政策として、新自由主義とは異なる「新しい資本主義」を掲げ「成長と分配の好循環」を目指すとしました。

長年にわたり新自由主義という魔物に蹂躙されてきた先進国では、経済格差の拡大に象徴されるように平等な民主主義と国家の分断に苦しみ現状からの脱出を模索しています。

ようやく日本でも新自由主義からの脱却に向けて首相自ら舵を切るのであれば、とても良いことだと思います。

 

新政府の基本的な方針として、岸田首相の掲げた「カーボン・ニュートラル」と「新しい資本主義」という課題とその取り組み姿勢は妥当なものと評価できると思います。

 

ただし、この二つの課題をどのように調整、実行して目標達成するのかという点では大きな疑問を感じます。

それは、カーボン・ニュートラルと経済成長が共存して実施していけるものなのか、という点です。各種報道によると、日本のエネルギー燃料の全構成に占める化石燃料の割合は76%ということです。

この構成比率を29年間でゼロにするということですが、経済を維持するには化石燃料に代わる代替え燃料が必要です。その代替え燃料候補と目されるのが太陽熱、風力や水素などの再生可能燃料です。ところが、これらの再生可能燃料は今のところ供給量と供給の安定性そしてコストすべての点で化石燃料よりかなり劣るようなのです。これらの弱点がいつ化石燃料に匹敵し凌駕しうるものになるのか。または、新しい技術で非化石燃料を作り出すことができるのか。それとも現在構成比率24%の非化石燃料ですべてを代替えしていくのか。

このような疑問をカバーした工程表が見えてこないと2050年カーボン・ニュートラルのゼロ達成は画餅に帰してしまうと思います。もちろん目標達成の可能性は、今後の技術的展開に大きく依存するものと思いますが、素人の目からみると容易に解決できる問題ではないと思えます。

 

そこで、COP26のデモに参加した若者が語るように「住むところがなくなってしまっては豊かさなどなんら意味がない」という声に真摯に耳を傾け、技術革新にのみ依存せず私たちは生活習慣の変更など人的レベルでの省エネルギー活動を並行して行うべきではないでしょうか。敗戦から76年経過して私たちの生活水準はとてつもなく向上しています。これは、国民挙げて経済成長をひたすら追求してきた結果であることは論を待ちません。しかし、気候変動により毎年繰り返される自然災害もまた経済成長によりもたらされた結果です。私たちは経済成長は必ずしも人間社会の進化を生み出すものではないこと、また人間性の成長に貢献するものでもないことを改めて認識すべきだと思います。欲に呆け経済的な価値基準でものごとを観察し判断することを社会通念としてきた経済成長神話ですが、岸田首相はいいタイミングで成長神話を見直す機会を与えてくれたと思います。

 

 

 

GDP成長より気温低下。

自民党の総裁選挙は、実質的には一国の為政者を選出する選挙にもかかわらず、国のリーダーとして提示すべき国家ビジョンが語られぬまま総裁選は大義なき戦術論に終始して総裁が決定された。直後の衆議院選挙も保守政党と野党によるお定まりの馴れ合い政権奪取ゲームで投票日一日だけの国民主権という擬制民主主義の選挙は平穏に終わった。

コロナ禍に苦しむ日本はこれから岸田首相の掲げる「新しい資本主義」を主要政策として国家運営が進められるのであろう。

華々しく安倍政権が打ち出した目玉政策、アベノミクスとは名ばかりの手垢にまみれた新自由主義だった。この政策を中心に足かけ八年にわたる国家運営が続いたが、その成果といえば富裕層と大企業が潤っただけだった。その跡を継いだ菅前首相は「自助、公助、共助」を掲げたがコロナ対応で経済対策には手が回らず、持てる者への公助と持たざる者は自助なりと貧富格差の拡大を助長したのみであった。岸田首相は、新しい資本主義とは新自由主義とは異なるものだと言明している。しかし、資本主義そのものが経済政策の基盤として永続的に普遍性のあるものか疑問に思う。

そもそも資本主義の原点は負債に始まるものだ。それゆえ絶え間なき資本の増殖を継続していくことが資本の絶対的な生存論理である。
このためには資本の増殖率=利子率は当然プラスでなければならない。
アベノミクスがなんら根拠を示さず当初から2%インフレに固執したのは、利子率=利益率が2%を下回ると資本から得るものはなくなるという資本主義経済の理論と経験からきたものであろう。

安倍元首相は二年で2%のインフレ目標の達成を掲げ幾多の手段を講じたが、目標はいまだに実現はされていない。

その原因は多々議論されているが、日本経済の過去の栄光と遺産に固執するあまり資本主義の変質に気づかずデジタル革命に乗り遅れたということが大きな要因だと思う。

デジタル革命が始まる前の資本主義とは(可視化されたものに価値があるという)実物資本主義というべきものであり、空間(先進国と後進国)と時間(情報、移動)の生み出す物理的ギャップによりコモディティを交換する経済パラダイムであった。当時の利益率は2%をはるかに超え高度成長期には二桁台を記録したこともあった。
この時代は1970年代に始まり主要先進国では、資本主義は民主主義との蜜月期を迎えていた。そして1989ベルリンの壁が崩壊して資本主義と民主主義は勝利の美酒に酔い「歴史の終わり」を謳歌した。いずれ民主主義と経済発展の福音は世界に波及するかに思われた。

世紀末には経済発展のエネルギーが最新テクノロジーの普及と運送手段の効率化を世界的範囲で加速させた。その結果、時空間がフラット化された世界が出現してきた。時間と空間ギャップを利用するビジネスの利益拡大は難しくなったのである。そこでフラット化した経済の地平線に金融工学IT技術を駆使した金融資本主義が登場してきたのである。米国の全産業に占める金融業の利益比率は1980年前半までの50年間は10%であったがそれ以降の20年間では30%を超えてきたのである。

しかし金融資本主義は幾何級数的な資産膨張というブラック・ショールズの描いたユートピアに溺れリーマンブラザースの破綻を招いてしまった。また金融資本主義の発展と並行するように民主主義は新自由主義に乗っ取られ、持てる者だけの自由が横行する擬制民主主義となり秘かに政治の市場化を助長してきたのである。

いっぽう中国は国家資本主義を発展させて米国に対抗するまでの経済力とハイテク技術力を誇るに至った。まさに新しい資本主義である。


GAFA
中国経済の発展を見るに、デジタル経済とはビット量=利益だと思える。
言うなれば、アナログからデジタル経済への移行は利子率からビット量への価値転換なのである。 

ここで新たな問題が出てきた。

それは経済理論でもあまり考慮されることがなかった地球環境とくに気候変動問題である。いうなれば突如あらわれた簿外債務である。

負債を起点とする資本主義だが、いままで地球環境という自然環境を負債とは意識していなかった。無視というよりは全く帳簿に記載せず資本主義は拡大成長してきたのだ。

気候変動問題と平仄をあわせるようにESGやらSDGなどが人新世のキイワードとなったが、なにも新しい課題ではなく文明的な近代社会における当たり前のビジネス・コンプライアンスである。カネにならないので今まで放置されていただけのものだ。

簿外債務という負債返済のためには、先進国では資本主義的意味における経済成長はしばらく期待できないだろう。なぜなら化石エネルギーに代わる再生エネルギーのコストと供給の安定性がネックとなり2%インフレを困難にするからである。

経済的な成長が人間社会にとって必ずしも進歩を意味するものではないこと、そして資本増殖が常に経済発展にはならないことを認識するいい機会であると思う。

一国の成長を評価する指標はGDP成長率ではなく気温低下率となるかもしれない。

 

言い換えの文化

「言い換え」とは、ものごとをより明確にするために別の言葉で表現することである。ところが、本来の意味そのものを変えてしまう言い換えがある。それは、情報の受け取り手に誤解や混乱を引き起こすことを意図した表現である。その多くは権力側の自己正当化や失政の隠蔽を目的としたものであったが、いまや一般社会においても言い換えは日常化している。

 

菅前首相の最後の記者会見を共同通信は次のように報道している。「就任以来、官邸で20回目となったこの日の会見では、(中略)質問と回答がかみ合わない場面も目立ち『説明不足』との批判を最後まで払拭できなかった。」

 

マスコミはじめ多くの識者は菅首相の答弁を「説明不足」と批判しているが、私は「説明不足」ではなくて菅首相の性格にも起因する「説明回避」と表現すべきである。官房長官時代から、彼の答弁には事態を説明し質問に回答しようとする姿勢が感じられなかった。首相就任直後の日本学術会議の委員6名に対する任命拒否では一層この感を強くした。任命拒否の理由を問われると「総合的かつ俯瞰的に判断した結果」と抽象的な概念を述べたのみでそれ以降は具体的な説明をしていない。任命拒否の理由説明を放置したまま首相を退任するのである。これは「説明不足」ではない。官房長官時代から一貫して「説明回避」そのものが本質なのであろう。

 

 

放置といえば、コロナ感染者の「在宅療養」という言葉もまた「在宅放置」の言い換えである。「療養」とは、病気を治すために休養することである。しかし、感染者は医療機関の診察さえ受けることができず、病気を治す手立てなどまったく分からずただ自宅に足止めされているのである。これを「在宅治療」と言うのは、国民を欺く政府やマスコミの言い換えであり生命に関わる問題ゆえに大きな問題である。もとはと言えば後手後手のコロナ感染対策が招いた医療崩壊は政府の責任である。その結果、受け入れる病院がなく在宅を余儀なくされ保健所からの電話一本で病状聴取を受けるだけで何らの療養も受けられない。国家が在宅を強制し国民を放置しているのである。それを、あたかも医療行為を施しているかのごとき幻想を催させる「在宅療養」という言葉に置き換えているのだ。

 

何故このような偽装の言い換えが横行しているのだろうか。その根源は明治維新にあるのではないだろうか。明治維新とは統治者である徳川幕府に対する薩長のクーデタであり「維新」ではなく「謀叛」というべきものである。大義なき薩長天皇を担ぎあげることで幕府への反逆をカムフラージュした。そして内乱を回避すべく大政を奉還した幕府に対して、「賊軍」であった薩長は自らを「官軍」と言い換えて反逆行為を正当化したのである。さらに、徳川幕僚が成し遂げたペリー来航以降の日米和親条約など無血開国の輝かしい成果を詐取して「葵への謀反」を「菊の盾」と言い換えて政権を奪取したのではないか。さらに、「勝てば官軍」という道義なき勝利至上主義をこの国に根付かせたのである。

 

明治維新以降、政権による国民欺瞞を目的とした言い換えは枚挙にいとまがない。その代表的なものは大東亜戦争における敗退を言い繕った「転進」実際は「撤退」、米軍占領下における敗戦責任を糊塗する「進駐軍」実際は「占領軍」などであろう。なかでも、典型的なものは大東亜戦争の「敗戦」を「終戦」と言い換え終戦記念日まで設けたことであろう。終戦記念日とした8月15日とはポツダム宣言受諾の詔書昭和天皇自ら国民に朗読して停戦を命じた日であり、終戦は米艦ミズーリー号上で行われた降伏調印日の1945年9月2日なのである。

さらに政府は敗戦責任を反省することなく、臆面もなく「一億火の玉」を「一億総懺悔」と言い換え国民を敗戦の共犯者に仕立てあげたのである。「終戦記念日」は敗戦責任を放棄すべく国家が国民に仕掛けた欺瞞の罠であった。その欺瞞は敗戦責任を総括することなく闇に葬り、A級戦犯容疑者を総理に押し上げ、その孫を二度までも総理にしたケジメなき無責任社会を生み出した元凶といえるのではないだろうか。

 

自民党総裁選に思う。

菅首相の退任表明に端を発した自民党の次期総裁をめぐる選挙が9月29日に行われる予定である。

総裁選の立候補者については毎日のように報道されるが、どなたの意見を聞いても語ることは枝葉末節の目的がみえない戦術論ばかりである。

やがて首相として国の統治者になるのだから、まず国家のビジョンを打ち出しその戦略を語るべきである。思えば中曽根元首相以降、国家のビジョンなど統治者から聞いたことがないのが日本政治の実態である、高望みはすまい。

このような選挙に当選した自民党の総裁が、日本の首相になるのだが自民党総裁選に投票できるのは自民党所属の国会議員383名と全国の自民党の党員、党友383名との合計766名にすぎない。これだけの人数で国家の統治者が決定されるとは、オープンにして戯画化された密室の談合政治のようなもので国民を愚弄した話ではないかと思う。

しかし、民主主義の原則に沿って執行された国民投票の結果、自民党が多数を占め国会でも多数派だから政権を担っているのである。その自民党の規定により総裁が選任され、その総裁が自動的に日本の首相になるのが当然だといわれると納得するしかない。

 

そもそも民主主義とは、市民が自由選挙で選出した代表を通じて市民としての権利を行使しかつ責任を負う統治形態というものだが、いくら美辞麗句を並べようと所詮は数の論理による統治形態である。

統治者と被治者である市民との間を媒介するのが選挙で選ばれた代表者であり、代表者は市民の意見を代表して国会に参加する。国会では各代表者は自己の意見を通す為に同様の意見を有する代表者と徒党を組んで政党を結成する。国会では政党は意見を貫徹するためには多数派となる必要がある。

市民の意見や権利は政党を通じて実現されるというが、これは多数派の政党に関しての話であり少数派はときどきおこぼれにあずかるだけである。

これで何とか日本は回ってきた。

ところが、いまや市民権利を代表する政党の機能は衰えて消失してしまっていることが大きな問題である。

なぜなら、グローバリズムとデジタル化により社会が液状化してしまい政党は社会の輪郭と特徴を把握したコミュニテイのセグメンテーションができなくなったからである。増加する一方のサイバーコミュニテイなどカオス化した個の見えざる集合体であり、市民像をイメージすることさえできない。その結果として社会と政治との接点という政党の機能を果たせなくなっているからである。

したがい、国会が法律の発議や起草をする場ではなくなり、主要な機能は与党は多数決で政府を支持し野党は政府の座を奪おうと非難に傾注する、ということになっている。

その行く着く先は、次のようなことになる。

与党は権力者に継続的な正当性を付与するだけの目的で戦い、野党は権力者の失墜を準備する。つまるところ、政党は市民の主張を統治者に対して代表することよりも、統治者の主張を市民たちに代表することになっているのである。

このような民主主義のファッショ化、専制化は今にはじまったことではなくヴァイマール憲法下のドイツ以来、民主主義の不治の病といえよう。

この解決策として、フランスをはじめとして諸国では統治者を別に選出する大統領制に切り替えているのであろう。(アメリカの大統領制は経緯が異なる)

日本が欧米諸国に遅ればせながら、民主主義の危機に至ったのは、戦後の優秀な官僚が作り出した中間層が復興経済のおこぼれに等しくあずかり平等と自由の幻想に長らく浸れ弥縫策で民主主義がもってきたからであると思う。

ロシアからの難民に思う。

先月末に北方領土国後島から泳いで北海道に渡ってきたとされる

ロシア人男性は、札幌出入国在留管理局に対し難民認定申請をしていた

ことが明らかになったとNHKが報じています。

 

入管難民法では難民申請の手続き中の外国人は送還が停止されるため、

当面は日本国内にとどまることになるとのことです。

 

この報道を聞いて思ったことですが、このような政府対応は何ともおかしな話だと思います。

なぜなら、日本は一貫して北方領土はロシアの領土ではなく自国の領土だと主張していきているからです。

そうであれば、国後島から泳いできたロシア人男性は国内での移住つまり引っ越しと定義して、転入手続きを取らせるべきだからです。

 

この報道と同じ頃、ロシアのプーチン大統領ウラジオストクで開催した東方経済フォーラムで演説し、

北方領土に日本企業などを誘致するための特区を創設すると表明しています。

 

北方領土問題について安倍前首相は、在職中に約30回もプーチン大統領と会談しましたが

事態を一歩も前進させることができませんでした。

報道機関のみならず野党も政界もこの問題を追求する様子はまったく見られません。

私はこのまま為政者の政治責任を放置しておくことは、民主主義政治を危うくするものだと思います。

 

デジタル庁の発足に思う。

本日の朝日新聞は、1日に発足したデジタル庁の事務方トップを務める石倉洋子・デジタル監(72)が、自身の公式ウェブサイトのブログで、画像素材サイトの画像を利用規約に違反して掲載。報道陣とのグループインタビューで無断転載を認め、「私の不注意だった」と謝罪したと報じている。

 

石倉氏は経営戦略が専門の大学院教授で特にデジタルに明るい人ではないようだ。なぜこのような人がデジタル監に任命されたのだろうか。どうも幾多りかの候補者は居たものの間尺に合わずデジタル庁発足に間に合わせた窮余の人選のようである。

 

9月1日に発足したデジタル庁は、そもそも菅首相肝いりの国家戦略であり、平井デジタル大臣は一年も前にデジタル改革担当大臣に就任し「デジタル改革を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当して来たはずである。それにもかかわらず事務方の司令塔ともいえるデジタル監の人選が遅れ開庁直前の任命となったのでは、スタートから問題含みと言わざるをえないようだ。

 

デジタル庁のホームページをみると以下のようなミッションとビジョンが掲げられている。

「ミッション」
誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化を。

一人ひとりの多様な幸せを実現するデジタル社会を目指し、世界に誇れる日本の未来を創造します。
「ビジョン」
Government as a Service

国、地方公共団体、民間事業者、その他あらゆる関係者を巻き込みながら有機的に連携し、ユーザーの体験価値を最大化するサービスを提供します。

Government as a Startup

高い志を抱く官民の人材が、互いの信頼のもと協働し、多くの挑戦から学ぶことで、大胆かつスピーディーに社会全体のデジタル改革を主導します。

 

どう読んでも具体性のない抽象的な観念論の羅列にすぎず、これではデジタル化により現状がどう改善改良されるのかまったくイメージできない。そもそも国民という言葉が一言もあらわれず主権者不在で官制目線からのお題目と言わざるをえない。

 

いまや太平洋の対岸ばかりでなくわが国が見下してきた近隣諸国からさえもデジタル勝鬨の声が日ごとに大きく聞こえてきた。そこで取り敢えず見切り発車したものの、明確なビジョンと戦略を欠いたままでは、やがて官僚機構に取り込まれ結局は血税を使い新たな天下り先という箱ものを作っただけという残念な結果にならぬよう祈るばかりである。