bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

GDPは生活向上の指標たり得るのか。

GDPとは、一定期間内に国内で生産された財とサービスの付加価値の合計額を示し、国の経済規模や健全性を表す指標である、と一般的に定義されています。

そしてGDPの増加率がすなわち経済成長率とされているようです。

しかし生活の質が向上して経済成長した場合のみでなく、生活に負の影響を与える場合でもGDPが増加することがあるのではないでしょうか。例えば自然災害により道路や家などが破損した場合の災害復興工事です。復興に費やされる財とサービスは新たな経済的付加価値をもたらすものの被災者や被災地の経済的かつ精神的な犠牲を代償にしてこそ成り立つものです。森林を伐採してゴルフ場を作ることで経済的付加価値は創出されますが、自然破壊が進み生物多様性を失っていきます。GDP増加率では量の比較はできても、GDP増加の原因など質的な評価、比較はできるのでしょうか。

もしできないのであれば、私たちの生活にとりGDPという経済指標は如何なる意味があるのでしょうか。

経済とは「経世済民」のことだと教えられた世代にとっての素朴な疑問です。

ポスト・トゥルースとフェイク・ニュース

ポスト・トゥルースの起源は、米作家Ralph Keyesの「The Post-Truth Era」(2004年刊行)といわれるが、環境問題誌「グリスト」の編集者、David Robertsが地球温暖化懐疑論者のキャンペーンに用いたのが起源との説もあるらしい。

定義は「事情をわきまえたうえで、人を欺くつもりで間違ったことを断言すること」である。

米国トランプ大統領の誕生により「ポスト・トゥルース現象」=「政治家がいくら嘘をついたとしても、国民の支持率には大きく影響しない」は日本を含め世界的な現象となり専制政治の出現を助長してきた。

 

フェイク・ニュースとは、意図せる(せざる)誤報または捏造報道のことである。

ニュースの取材側には事実の信憑性をどこまで検証できるか限界がある。報道が誤りか否かまた意図的かどうか、判断可能性はニュース受信側のみならず報道側でも疑問である。

さらに、ニュースの受信側には「メディアは真実を報道するもの」あるいは「メディアは善ではなく快を追求するものだ」といった思い込みが存在する。

フェイク・ニュース氾濫の原因を、*ブルムバーグは「人々は自分が無知であることに気づかなくなった。それゆえフェイク・ニュースに接しても本当かどうか調べようとする気を起こさなくなった」「本物を見分ける能力の過信」と指摘、ガーディアンは「フェイク・ニュースの拡散速度)が上昇、コストは低下して手間がかからなくなった」ためだと評している。

*MITのTwitter調査では、事実が伝播するのは1,000人程度であるのに比べ噓は多い時には10万人まで拡大する。拡散力は100倍、拡散速度は20倍としている。

 

「嘘でもいいから、クリックしたくなる話」を作れば大きな利益が生み出せる仕組み(フェイク・ニュースとポスト・トゥルース)、これが現代資本主義と政治の象徴であろう。

*(駒澤大学グローバルメディアスタデイーズ学部、柴﨑厚士教授の講義資料抜粋)

 

「真実はただ一つか

「真実」:起こった事柄に対する解釈 「真理」:確実な根拠に立脚する普遍的に正しい事柄

 

「群盲、巨象を評す」という言葉がある。大きな象の鼻や足などに触れた盲人の群れが、象というものは云々とそれぞれ評するがいずれも象の全体像を言い当てることはできない。鼻にふれた人にはその鼻が足に触った人にはその足が象の真実なのである。もし象の各部にそれぞれ触れた盲人が10人いれば、真実が10あることになる。

「本当の色は存在するのか」

ある色を見て「赤」という人がいれば「ピンク」や「オレンジ」という人がいる。

人は「本当の色が一つある」という発想でものを見て、間接的な情報やイメージで事物を判断しがちである(いわゆる先入観、偏見)

 

真実は百面相であるにもかかわらず、人は真実の前提として、「正しい真実はただ一つ」と考える。それゆえ、フェイクでないニュースや正しい真実という本物が存在するという前提に立つからこそフェイク・ニュースもポスト・トゥルースも成立することになる。

 

この世の中には真実はいくつも存在し、実際にはすべて真実なのである。

真実とは、実はグローバルな*想像共同体が新たに生み出す虚像なのかもしれない。

 

 *

「フィルター・バブル」

  ネット利用者個人の検索履歴を学習・分析して、関連性が高いと推測される情報が優先的に表示される。利用者の志向・行動傾向に合わない情報は隔離され、自身の価値観や考え方のバブルの中に孤立する情報環境。

 

「エコー・チェンバー」

  SNSでは自分の興味・関心事に沿ったユーザーをフォローする。

結果的に、SNSで意見を発信すると自分に似た意見が返ってきて自分の意見が広く支持されていると感じてしまう現象。

 

 

 

眞子さまのご結婚

 秋篠宮家の長女・眞子さんと小室圭さんは、結婚されて日本を離れニューヨークでの生活を始めました。

眞子さまのご結婚については、小室さんに関する醜聞から賛否両論がありました。

この問題は、眞子さまが皇族であるために一般国民の結婚とは異なる視点で論じられていると思います。皇族は私たちと同じ国民であるのか否か。この点を明確にしてからでないと、どうも考えようもありません。
この問題に関係するのは憲法ですが。
憲法1条では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
憲法11条では、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とあります。
ここでいう国民とは「国籍法」により定められた日本国籍の所有者のことです。

しかし、姓も戸籍もない天皇と皇族は日本国籍を有するのでしょうか。戸籍のない人が国籍を取得できるのでしょうか。眞子さまはじめ皇族が外国に入国する際のパスポートはどうなってるのでしょうか。憲法の規定を読み替えると国籍がなければ基本的人権の享有は妨げられることになります。ということは、さまざまな自由や権利つまり表現の自由や移動の自由、職業選択の自由もないことになりかねません。
天皇については、「象徴という地位」ですから、基本的人権を超越した概念で理解すべきか(イデオロギーとしての天皇制は戦前と戦後に断絶はない?)とも思いますが。しかし、皇族については、どうなるのでしょうか。

黄昏ゆくリベラル

最近リベラルなる言葉が聞かれなくなった。そこでそもそもリベラリズムとは何かを考えてみた。どうやらその概念の中核となるのは自由、個性、社会性、公共利益、進歩、合理性だと思われる。このうち自由と進歩そして合理性を強調するのが世紀末から隆盛を極めるニューリベラリズムいわゆる新自由主義といわれるものであろう。

このニューリベラリズムに一国の政治と市場を売り渡してきたのがアベノミクスだ。デフレ脱却と経済成長をめざしたアベノミクスは、低金利と円安という国家威信(社会性と公共利益)のシンボルたる自国通貨を叩き売るという戦略を合理的な進歩と成長への道だとした。そして為政者はその職を辞するにあたり株高と雇用増大という大きな成果をもたらしたと自負したがデフレ脱却と経済成長という目標を果たすことができなかった。

株高を享受したのは株式に投資のできる富裕層であり、雇用増大は余剰社員を抱える大企業が正規社員の雇止めと削減をおこない低賃金の非正規雇用者に入れ替え非正規雇用の比率を増やした結果であろう。したがい雇用者数は増加したが総人件費は逆に低減した。アベノミクスの恩恵を受けたのは富裕層と人件費を削減でき余得を得た大企業だった。社会構成員の全員が対象となる自由や進歩ではなく持てる者のみが謳歌できるのがニューリベラリズムの自由であり進歩であるゆえアベノミクスのもたらした成果は当然の帰結であろう。

 

いっぽう時代錯誤の経済認識にとらわれた為政者は、大企業など持てる者への優遇税制を図りその埋め合わせ策として消費増税など弱肉強食の社会的弱者を対象にした収奪策を繰り出し貧困層を増大、持てる者と持たざる者の経済格差を拡大してきた。さらに偏狭な価値観を持つ為政者はアベノマスク、モリカケやサクラを観る会など公私混同した児戯的パーフォーマンスに欣喜雀躍し行政、司法の忖度と盲従を要請してきた。このようにして国家、国民の社会性や公共利益は大きく棄損されてしまった。

このような腐敗した政府に異議申し立てをした財務局職員が諫死した。諫死とは、自殺と異なり社会性と公共利益性をもつ個性から共同性への訴求行為である。その妻は夫の諫死を財務局の内部調査で幕引きされたため国と当時の理財局長に対して損害賠償を求める訴訟を起こした。ところが多くの国民の予想に反し国は損害賠償金の支払いを行うとし不意打ちで訴訟を終わらせた。公文書改ざんの責任者は白昼堂々と闇に消えたのである。岸田首相は職員の妻に実態究明を約したが、訴訟終了で決着済みと弁明した。これが法治国家を自認する日本の実態である。いまや持たざる者の辞書には自由も進歩もなくなった国、社会性(社会正義)にも公共利益にも重きを置かない日本なのである。

リベラルな理性を蔑視する風潮が日本社会に蔓延するのは止むをえまい。

「暗殺の森」映画評

 半世紀経過するもやはり感動の名作。 意外にも若い世代の女性が多く映画館は満員。 母性への嫌悪と同性への恋闕、富裕さゆえの虚無との葛藤に時代と悶える主人公、 それゆえ過去のあやまちからの逃避をファシズムに求めたインテリの悲劇。 テロ前夜のパリ、恋敵と女同士で舞うドミニク・サンダの絶望的な美しさ。 早朝の雪に埋もれた森の暗殺シーンは狂おしいほどに切なく愛おしい。 それは暗殺現場で主役を放棄したテロリストたりえぬファシストとしての悲劇ゆえか。 「卑怯者とホモと・・・人には反吐が出る」とテロ現場で吐き捨てたガストーネ・モスキンのセリフが重く心に沈殿する。2015/11/13

COP26と「新しい資本主義」

先日、気候変動問題に関する世界会議COP26が英国グラスゴーで開催されました。

この会議には日本から岸田首相が参加、2050年カーボン・ニュートラル達成への日本国の決意、そしてアジア諸国のエネルギー・トランジションに最大1000億ドルの支援を行う意向を表明しました。

 

ところが議長国の英国から事前に、石炭火力の廃止時期を表明するよう求められていたにもかかわらず岸田首相は何らこの件については言明しませんでした。そのためか環境NGOからは二年連続となる「化石賞」が日本に授与されました。

TVニュースによると、COP26会場の周辺には若者を中心に世界中から5万人を超える人が集まり、COP26は綺麗ごとを並べただけで失敗だと抗議の声を上げました。日本からも高校生、大学生などがグラスゴーに向かい会場入りする岸田首相に意見書を手渡そうとしました。しかし、聞く力をアピールする首相は彼らに一瞥を与えることもなく無言で通り過ぎました。その後の報道によると、首相従者の方が手紙を受け取ってくれたようです。

 

いっぽう、衆議院選挙で勝利した岸田政権は目玉政策として、新自由主義とは異なる「新しい資本主義」を掲げ「成長と分配の好循環」を目指すとしました。

長年にわたり新自由主義という魔物に蹂躙されてきた先進国では、経済格差の拡大に象徴されるように平等な民主主義と国家の分断に苦しみ現状からの脱出を模索しています。

ようやく日本でも新自由主義からの脱却に向けて首相自ら舵を切るのであれば、とても良いことだと思います。

 

新政府の基本的な方針として、岸田首相の掲げた「カーボン・ニュートラル」と「新しい資本主義」という課題とその取り組み姿勢は妥当なものと評価できると思います。

 

ただし、この二つの課題をどのように調整、実行して目標達成するのかという点では大きな疑問を感じます。

それは、カーボン・ニュートラルと経済成長が共存して実施していけるものなのか、という点です。各種報道によると、日本のエネルギー燃料の全構成に占める化石燃料の割合は76%ということです。

この構成比率を29年間でゼロにするということですが、経済を維持するには化石燃料に代わる代替え燃料が必要です。その代替え燃料候補と目されるのが太陽熱、風力や水素などの再生可能燃料です。ところが、これらの再生可能燃料は今のところ供給量と供給の安定性そしてコストすべての点で化石燃料よりかなり劣るようなのです。これらの弱点がいつ化石燃料に匹敵し凌駕しうるものになるのか。または、新しい技術で非化石燃料を作り出すことができるのか。それとも現在構成比率24%の非化石燃料ですべてを代替えしていくのか。

このような疑問をカバーした工程表が見えてこないと2050年カーボン・ニュートラルのゼロ達成は画餅に帰してしまうと思います。もちろん目標達成の可能性は、今後の技術的展開に大きく依存するものと思いますが、素人の目からみると容易に解決できる問題ではないと思えます。

 

そこで、COP26のデモに参加した若者が語るように「住むところがなくなってしまっては豊かさなどなんら意味がない」という声に真摯に耳を傾け、技術革新にのみ依存せず私たちは生活習慣の変更など人的レベルでの省エネルギー活動を並行して行うべきではないでしょうか。敗戦から76年経過して私たちの生活水準はとてつもなく向上しています。これは、国民挙げて経済成長をひたすら追求してきた結果であることは論を待ちません。しかし、気候変動により毎年繰り返される自然災害もまた経済成長によりもたらされた結果です。私たちは経済成長は必ずしも人間社会の進化を生み出すものではないこと、また人間性の成長に貢献するものでもないことを改めて認識すべきだと思います。欲に呆け経済的な価値基準でものごとを観察し判断することを社会通念としてきた経済成長神話ですが、岸田首相はいいタイミングで成長神話を見直す機会を与えてくれたと思います。

 

 

 

GDP成長より気温低下。

自民党の総裁選挙は、実質的には一国の為政者を選出する選挙にもかかわらず、国のリーダーとして提示すべき国家ビジョンが語られぬまま総裁選は大義なき戦術論に終始して総裁が決定された。直後の衆議院選挙も保守政党と野党によるお定まりの馴れ合い政権奪取ゲームで投票日一日だけの国民主権という擬制民主主義の選挙は平穏に終わった。

コロナ禍に苦しむ日本はこれから岸田首相の掲げる「新しい資本主義」を主要政策として国家運営が進められるのであろう。

華々しく安倍政権が打ち出した目玉政策、アベノミクスとは名ばかりの手垢にまみれた新自由主義だった。この政策を中心に足かけ八年にわたる国家運営が続いたが、その成果といえば富裕層と大企業が潤っただけだった。その跡を継いだ菅前首相は「自助、公助、共助」を掲げたがコロナ対応で経済対策には手が回らず、持てる者への公助と持たざる者は自助なりと貧富格差の拡大を助長したのみであった。岸田首相は、新しい資本主義とは新自由主義とは異なるものだと言明している。しかし、資本主義そのものが経済政策の基盤として永続的に普遍性のあるものか疑問に思う。

そもそも資本主義の原点は負債に始まるものだ。それゆえ絶え間なき資本の増殖を継続していくことが資本の絶対的な生存論理である。
このためには資本の増殖率=利子率は当然プラスでなければならない。
アベノミクスがなんら根拠を示さず当初から2%インフレに固執したのは、利子率=利益率が2%を下回ると資本から得るものはなくなるという資本主義経済の理論と経験からきたものであろう。

安倍元首相は二年で2%のインフレ目標の達成を掲げ幾多の手段を講じたが、目標はいまだに実現はされていない。

その原因は多々議論されているが、日本経済の過去の栄光と遺産に固執するあまり資本主義の変質に気づかずデジタル革命に乗り遅れたということが大きな要因だと思う。

デジタル革命が始まる前の資本主義とは(可視化されたものに価値があるという)実物資本主義というべきものであり、空間(先進国と後進国)と時間(情報、移動)の生み出す物理的ギャップによりコモディティを交換する経済パラダイムであった。当時の利益率は2%をはるかに超え高度成長期には二桁台を記録したこともあった。
この時代は1970年代に始まり主要先進国では、資本主義は民主主義との蜜月期を迎えていた。そして1989ベルリンの壁が崩壊して資本主義と民主主義は勝利の美酒に酔い「歴史の終わり」を謳歌した。いずれ民主主義と経済発展の福音は世界に波及するかに思われた。

世紀末には経済発展のエネルギーが最新テクノロジーの普及と運送手段の効率化を世界的範囲で加速させた。その結果、時空間がフラット化された世界が出現してきた。時間と空間ギャップを利用するビジネスの利益拡大は難しくなったのである。そこでフラット化した経済の地平線に金融工学IT技術を駆使した金融資本主義が登場してきたのである。米国の全産業に占める金融業の利益比率は1980年前半までの50年間は10%であったがそれ以降の20年間では30%を超えてきたのである。

しかし金融資本主義は幾何級数的な資産膨張というブラック・ショールズの描いたユートピアに溺れリーマンブラザースの破綻を招いてしまった。また金融資本主義の発展と並行するように民主主義は新自由主義に乗っ取られ、持てる者だけの自由が横行する擬制民主主義となり秘かに政治の市場化を助長してきたのである。

いっぽう中国は国家資本主義を発展させて米国に対抗するまでの経済力とハイテク技術力を誇るに至った。まさに新しい資本主義である。


GAFA
中国経済の発展を見るに、デジタル経済とはビット量=利益だと思える。
言うなれば、アナログからデジタル経済への移行は利子率からビット量への価値転換なのである。 

ここで新たな問題が出てきた。

それは経済理論でもあまり考慮されることがなかった地球環境とくに気候変動問題である。いうなれば突如あらわれた簿外債務である。

負債を起点とする資本主義だが、いままで地球環境という自然環境を負債とは意識していなかった。無視というよりは全く帳簿に記載せず資本主義は拡大成長してきたのだ。

気候変動問題と平仄をあわせるようにESGやらSDGなどが人新世のキイワードとなったが、なにも新しい課題ではなく文明的な近代社会における当たり前のビジネス・コンプライアンスである。カネにならないので今まで放置されていただけのものだ。

簿外債務という負債返済のためには、先進国では資本主義的意味における経済成長はしばらく期待できないだろう。なぜなら化石エネルギーに代わる再生エネルギーのコストと供給の安定性がネックとなり2%インフレを困難にするからである。

経済的な成長が人間社会にとって必ずしも進歩を意味するものではないこと、そして資本増殖が常に経済発展にはならないことを認識するいい機会であると思う。

一国の成長を評価する指標はGDP成長率ではなく気温低下率となるかもしれない。