bekiranofuchi’s blog

社会を独自の視点で描いてみたいという男のつぶやき。

ウクライナ支援策。

ウクライナの惨状を見るたびに何もできない我が身に焦燥感と罪悪感は日々募るばかりです。

同様のお思いをしている日本国民の方は相当な数に達するのではないだろうか。
一人では微力でも国民の願いが一体になると大きなものになるのではないだろうか。
そこで、考えてみた。

ふるさと納税ウクライナ版に切り替えて、返礼品は無いが寄附金の全額を税控除対象とする、こんな支援策を政府が実施してはどうでしょうか。
世界社会の一員として、世界は全人類のふるさとだとして、日本の意思表示にもなると思います。

なぜロシアはウクライナに侵攻するのか

どう考えても一方的で不条理としか思えないロシアのウクライナ進攻。

その背景について、大ロシア主義(昔のソ連邦)の復活だとかプーチンの誇大妄想とか様々な議論がなされていますが、地政学的な見地からの意見は見られません。

そこで、独断と偏見による地政学的な解説を以下に試みます。

 

地政学の泰斗といわれる英国のH.Jマッキンダーいわく、

「Who rules East Europe commands the Heartland

  Who rules the Heartland commands the World-Island

  Who rules the World-Island commands the World」

*World-island とは南北アメリカを含む小さな島全部(新大陸)を除く旧世界のこと。

これは地球表面の9/12は海、2/12が旧世界大陸、その他が1/12という理解に基づく。

Heartlandについてマッキンダーは次のように述べている。

「ユーラシアの北の部分であり、主としてその内陸の部分、北極海の沿岸から大陸の中央の砂漠地帯に向かって延びており、

バルト海黒海とのあいだの大きな地峡がその西側の限界になっている。」

 

この概念では地図上で明確に限定することはできないが、バルト三国ポーランドからベラルーシスロバキアチェコハンガリー

ルーマニアウクライナを包摂するものといえる。

とくにバルト海黒海を結ぶ最短ルートはポーランドウクライナまたはバルト三国ベラルーシウクライナを貫く直線となる。

言うなれば、帰属不明のベルト地帯であり実在する場所というよりも相対的な概念というべきかも知れない

ヒットラーポーランド侵攻で世界大戦の幕を開けると、即座にソ連ポーランドに侵入、その裏で両国が結んだ独ソ不可侵条約とは

マッキンダーの呪縛のなすものともいえる。

またナポレオンはロシアに向かいハートランドを横断し「国の地理を理解すれば、その国の外交政策がわかる」といったといわれる。

 

ヒットラーがその「生存圏理論」に心酔したドイツの地政学者K.Eハウスホーファーは次のごとく語っている。

「国境は生ける有機体であるから国境の安定を求めるのは衰退に向かう国だけで、活力に満ちた国は道路を建設する」

 

「条約やその他の取り決めで決められた国境をただ地図の中に見るのではなく、その不変の地形的要素からどのようにして

発展の契機を読み取るか、文字通り方法手段としての地図の読み方を長年にわたり訓練されてきたのがドイツ人である」と

マッキンダーはいう。

 

地政学とは、「国家戦略を決定するために国が考慮に入れなくてはならない外部環境についての研究である。

その環境とは生存と優位を求めてともに争う他国の存在である。つまり人間の分断に地理がおよぼす影響のことだ」

(R.Dカプラン、米国ジャーナリスト)

 

国民国家、日本の拠り所は国土のみであるという日本人には以上のような論理は容易に受け入れられないでしょう。

 

七世紀にあった日中戦争

7世紀の日本には大きな出来事がありました。それは中大兄皇子などを中心とした宮廷勢力が豪族の長であった蘇我氏を滅ぼし大化改新を行ったことです。巷間言われるように、中大兄皇子蘇我氏を滅ぼさなければならなかったのは単なる権力争いではありませんでした。

大化改新がなされたまさに645年、唐の太宗は10万人の大軍で高句麗に攻め込見ました。倭国高句麗百済と親交があり高句麗の次に唐が攻め込んでくるのは倭国ではとの恐怖に駆られました。当時の倭国は、それぞれの地域で豪族が乱立した状態であり対外的にとても結束などできる状態ではありませんでした。唐からの攻撃が予想される中で倭国としては国内の権力を天皇のもとに集中して対外的に備える必要が出てきました。そこで天皇のもと統一国家を確立すべく中大兄皇子(後の天智天皇)は蘇我氏を打倒して大化改新を行ったのです。そして国の存亡をかけて倭国は唐・新羅連合軍に戦いを挑みました。しかし663年白村江の戦いで大敗を喫しました。そこで今度は唐と新羅は日本の海岸に現れるだろうと、倭国対馬壱岐島に防衛施設を作り太宰府に水城を築きました。ところが676年になると朝鮮半島新羅により統一されてしまいました。

ここで倭国は一気に方向転換をするのです。
(以下は、加藤陽子さんの「戦争まで」朝日出版社からの抜粋引用です)
なんと敵国の唐に対し32年ぶりに遣唐使を再開したのです。702年唐に派遣された遣唐使粟田真人は唐の則天武后に向かい、今回私が唐にやってきたのは倭国の使いではなく日本と言う新しい国の使いとしてきました、と説明しました。則天武后は粟田を気に入り倭国から日本国への国号を変更を認めます。
絶体絶命の危機にあって、国内的には大宝律令と言う新しい法令を整備し、対外的には新しい国=日本を建国したと言って、かっての敵国と外交関係を再開、従来の敵対関係をゼロにすることを日本の古代国家はやり遂げたのです。唐に向かって日本と言う国はこのような国であると説明するための本が日本書紀と言う国家編纂による最初の歴史書だったのです。(引用終わり)


今の日本にもこんなことができれば良いのですが。世界の政治力学において、日本が米国の従属変数たる状況を脱することは難しく、対外的な行動を被動者としての地位でしか取り得ない哀しい国家の現状は実に嘆かわしいことだと思います。

ニ・二六事件 外伝(後)

3月5日この日、入院将校中の最上席者であった金岡中佐から昼食をともにしたいと申し出があり、寿はありがたくお受けした。最後の昼食をとったあと中佐あてに残した歌がある。

 ”武士の道と情を盛り上げし 昼餉の味のいとど身にしむ”

 

入院以来、寿に付き添っていた付添婦は朝から何か予感があったようで寿に終始付き添っていたが、三時過ぎに階下の事務室に下りて行った。その間隙を縫うように寿は素早く白衣を軍服に着替えて縁側から病室をぬけ出た。

 

病棟の横の低い垣根を越えて左手の山林に入ると病院との境界を画する板塀から10メートルほどのところに大きな松の木がある。

木立を通して崖下に蒼く輝く熱海湾が見下ろせる。

その松の根元に端座して東方皇居を拝し上着を脱ぎ果物ナイフを持ち作法にのっとて下腹部を真一文字に割き切り返す刃で頸動脈を突いた。一刀、ニ刀、さらに数刀が加えられた。鮮血が軍褌に滴り落ち寿の肉体はその中に崩れ落ちた。

 

病室に戻った付添婦は寿の姿が見えず、整頓された白衣を見つけると軍服がないのに驚いて直ちに院長に報告した。

院長の指示で捜索にとりかかったが院内に見当たらず構外にでた一班が自決現場を発見した。駆け付けた瀬戸院長が寿を抱き起すとまだこと切れていなかった寿は頸部を指して「まだ切れていませんか」とたずねた。院長が首をかしげるのを見て寿は鮮血にまみれた右腕を振り上げ最後の力をふり絞り一刀を頸部に加えたという。

すでに周囲に病院の人々が集まるなか院長は止血法を行おうとすると寿は「よしてください」と力ない腕を振って拒否した。

 

院長は担架を命じて元の病室に戻した。

寝かせる位置を打ち合わせる声が「北枕に」と聞こえたらしく、突然意識を取り戻した寿は大声で「皇居に向かって東向きにしてください」と叫んだ。感に打たれた人々が静かに東向きに寝かせると、満足げにかすかにうなずいて意識を失った。

寿はその後も意識をおりおり回復して「刃物が鈍かった」などと断片的に語りながら昏睡状態に陥ていった。翌六日の午前三時ごろには全く意識を失ってしまった。

 

病院からの急報で東京第一衛戍病院から田辺院長が自動車で駆け付け最後の処置がとられた。

白いカーテンを張った縁側の外が明るくなり始めるころ、脈拍を診る田辺院長から静かに臨終が告げられた。六時四十分であった。

 

割腹後、十六時間の長きにわたり生を保ちながら、一言半句も苦痛を漏らさず苦面すら呈せず従容として死についたという。

 

机の上に整然として多数の遺書が置かれていた。

和紙に毛筆でしたためられていた。そのなかに瀬戸院長あてのものがあった。

 ”あを嵐過ぎて 静けき日和かな”

 

遺書は国民、陸軍大臣、同士一同それぞれに宛たものがあった。

河野司は記す。

「この遺書三通は、自決前日、病院を訪れた所沢飛行学校副官に、死後における善処方を委嘱してあった。弟はその遺書がそれぞれの宛先に、確実に伝達されることをくれぐれも依頼し、副官もまた確約を与えたという。私もこの三通を確認し、全文を複写して手許に残した。本文は3月6日熱海分院に来院した飛行学校川原教官に託して学校に持ち帰ってもらった。その後、それがいかに処置されたかは知る術がなかったのを遺憾とする。国民に宛た遺書はぜんせん発表されなかったのはもちろん、同士に宛た遺書も獄中の同士に渡された形跡は全くない。・・・私はその後、この三通の遺書を謄写して近親と関係有志に送ったが、その一部が当局の手に入り、当時のいわゆる怪文書として追及され、以後その頒布を厳禁されることとなった」

 

追記

「たしかにニ・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった」(三島由紀夫

 

 

 

 

ニ・二六事件 外伝(前)

JR熱海駅からお宮の松に向かうバス通りをしばらく歩くと国道135号線に行きあたる。

その先に見えるのは国際医療福祉大学の熱海病院である。

駅から延びる道と135号線が合流する道路その右手からは切り立った崖がそそり立っている。

このあたり一帯が元熱海衛戍病院(陸軍病院)の跡地である。

戦後、国立熱海病院となったが、昭和39年バイパス国道(今の135号線)の開通により元陸軍病院の敷地は分断され道路を挟んで海側は国際医療福祉大学となり山側は国家公務員共済組合連合会(今はKKRホテル)に売却された。

135号線沿い山側の狭い歩道には、かすれた文字で「熱海陸軍病院裏門跡」と書かれたブリキの標識が建っている。

そのすぐ横に建っているのは「河野寿大尉自決の地」と書かれたブリキの標札である(写真添付)。

歩道から脇道に入り狭い坂道を上がると山腹を切りひらいた段々畑のような地形が現れる。後ろを振り返ると松林の間から冬の陽光を照り返す熱海湾が一望できる。

ここが河野寿大尉自決の地だ。

 

河野寿大尉は、湯河原にある伊藤屋の別荘光風荘(再建後の写真添付)に逗留していた

内大臣牧野伸顕伯爵を襲撃したニ・二六事件の青年将校で湯河原襲撃隊の隊長である。

東京の蹶起部隊と異なり襲撃隊の構成は軍民混成であった。

すなわち河野寿大尉、宇治野時参軍曹(歩一第六中隊歩兵軍曹)、黒沢鶴一上等兵(歩一歩兵砲隊歩兵一等兵

黒田昶(予備役歩兵上等兵)、中島清治(予備役歩兵曹長)、宮田晃(予備役歩兵曹長

民間からの参加者は、水上源一(弁理士)・綿引正三(無職)の合計8名であった。

事件当時の河野寿大尉は陸軍航空兵大尉、前年10月満州から戻り所沢陸軍飛行学校で操縦を学ぶ学生で単身で参加したため手兵がおらず、同志である栗原中尉から紹介された7名を率いることとなった。

 

昭和11年2月、雪の多かったこの年は温暖な湯河原でもまだ残雪が消えなかった。

光風荘は湯河原の温泉街通り伊藤屋本館とは隔たって藤木川を越した山際に位置していた。

背後は切り立った崖が迫り、北側は幾分低い崖で山林に続き、東側は狭い前庭の先が高い石垣になっており南側のみが道幅1メートルほどの通路に面していた。

光風荘には牧野夫妻のほかに、孫の和子(吉田茂令嬢)と看護婦、女中それに護衛警官数名が滞在していた。

 

2月26日午前二時、麻布第一連隊の営門を二台の乗用車に分乗した襲撃隊はまだ明けやらぬ湯の街に到着した。

ただちに所定の位置につき東京の各部隊と約した一斉蹶起の時間を待ち、午前五時ちょうど襲撃を開始した。

 

襲撃隊は玄関前で機関銃を乱射、その銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査(警視庁警務部警衛課・牧野礼遇随衛)は、即座に機転を働かせ牧野伯爵を裏口から避難させた。

襲撃隊は護衛の皆川義孝巡査と銃撃戦となり、河野大尉と宮田が負傷した。

河野寿大尉が負傷したため計画の変更を余儀なくされた襲撃隊は建物に放火して光風荘を炎上させたが、牧野伸顕伯爵襲撃は失敗に終わった。

銃撃戦で皆川義孝巡査は死亡、河野寿大尉と宮田晃予備役曹長は負傷した。

河野寿大尉重傷後の部隊指揮は民間出身であった水上源一が務めている。

(そのため民間人でありながら水上源一は、河野寿大尉自決後の湯河原襲撃隊の責任者として死刑となっている)

襲撃隊8名の内、宮田は湯河原の病院に入院したが、重傷の河野大尉は熱海の東京第一衛戍病院熱海分院に運び込まれ胸部盲貫の弾丸摘出手術を受ける。

残る6名は翌日の2月27日に三島憲兵隊に収容された。

 

以降、河野寿大尉の実兄である河野司の著「私のニ・二六事件」(河出文庫)の抜き書きを中心に河野寿大尉の自決に至るまでを辿ることとする。

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河野大尉の兄、河野司は東京商大を出て上野松坂屋に勤務していたが26日の号外で事件を知り「さては、やったな」「弟もかならずこの渦中にある」とピンときた。しかし弟の消息がわからぬまま27日が過ぎた。河野司(以降、司)は勤務先に欠勤届を出して翌日、所沢の飛行学校に向かった。そこで聞き出したことは、河野寿大尉(以降、寿)は湯河原の河野伯爵襲撃に向かったこと、同所で負傷したらしいこと、負傷した将校が一人、湯河原の病院に入院しているらしいということことだった。ただちに司は所沢を発ち高田馬場から東京駅経由で湯河原に向かった。しかし夕暮れ時の伊藤屋旅館で来意を告げると何も知らぬと冷たくあしらわれる。それでも何とか聞き出した町医者に向かうと治療したのは宮田という下士官ですでに去ったあとだった。他の人はどうなったか聞くが一切知らぬと突っぱねられた。だが帰りがけ、自動車の運転手から「熱海の陸軍病院に入った人がいるらしい」と聞いた。

深夜帰り着いた東京では「蹶起部隊」は「騒擾部隊」と変わっていた。

翌29日には、奉勅命令が下り、「兵に告ぐ」放送が繰り返し流された。

ラジオは東京駅発の列車はすべて運行停止と告げ、司はやむなく熱海行きを断念した。

市中に流れる「兵に告ぐ」に続く「全員帰順」の放送、いまや逆賊になろうとしている弟を案じ眠られぬ夜を過ごした司は3月1日朝八時の熱海行き列車に飛び乗った。

車中で目を通した朝刊は、事件鎮圧しすべてが平常に戻ったと報じていた。

 

熱海衛戍病院に着くと院長の軍医少佐、瀬戸尚二は物静かに司を出迎え「じつは今朝、お勤め先の方へおいでいただくよう連絡したところでした」という。

院長に導かれるまま熱海湾に急角度に迫った山腹に階段状に立った一番高い病棟に司は入った。弟の収容されている将校病舎である。廊下から日本間の病室に入る。六畳の次の間に八畳の病室、南側一杯がガラス戸越しに開け熱海湾がみえる。

院長は「どうぞごゆっくり」と室外に去った。同時に次の間に詰めていた者も(憲兵だと後で司は知った)静かに姿を消した。

「ご心配かかけてすみません」「怪我をしたそうじゃないか。でも経過が良いそうで安心した」「不覚の負傷でした。大失敗でした。おかげでなにもかもめちゃくちゃです。私が負傷をしなかったら牧野をやり損じるようなことはしなかったでしょう。東京の同志たちが逆賊になるような過誤をおかさせやしませんでした。それがなによりも一生の遺憾です」「こんな結果になろうとは夢にも考えなかったことです。無念この上もありません」司は、はっとした。寿は私を決意している。「国家のため、陛下のために起ち上がった私が、夢にも思わなかった叛徒に・・・」「叛徒という絶体絶命の地位は、一死もって処するのみです」

 

司は思った。決意はすでに決まっているが時期は決しかねているようだ。

それは負傷の経過と遺書を書き残す時間の問題である。

負傷のため腕の自由を欠いていることは自決に障害で不成功に終わりかねない。

 

兄弟の会話は一時間ほど時間が経っていた。

寿は、三島の重砲兵連隊長、橋本欣五郎大佐(三月事件・十月事件の首謀者、寿と同じ熊本陸軍幼年学校卒)からの見舞いの果物籠からリンゴを取って司にすすめた。古武士のような父や弟たちの話に花が咲いた。

ニ、三日中の再開を約して司は座を立つと「兄さん、お願いがあるんです。湯河原で死なした皆川巡査には可哀そうなことをしました。すまないと思っています。ことに遺族のことを思うと、個人としてお詫びのしようもありません。どうか私に代わって詫びてあげてください。よろしくお願いします」司は必ずその気持ちを遺族に伝えて弔問すると約束した。

 

3日の朝、戸畑の姉から上京するという電話を司は受け取った。

翌4日の朝9時過ぎに司は沼津駅で姉夫婦を出迎えて熱海衛戍病院に向かった。

通された応接室で瀬戸院長の口ぶりから司は寿の東京収容の時期が迫ってきたことを感じる。寿は朝から憲兵隊長の取り調べを受けているという。

しばらくして、憲兵隊長の取り調べが終わったと知らされ寿の病室に入った。

病床に正座して三人を迎えた寿の面持ちは三日前とは別人のように落ち着いた柔和さに満ちていた。「委細は司さんから聴きました。よく決心してくれました。残念ですがやむをえないことです。どうか後のことは決して心配しないで安心してください」義兄と姉は静かにこもごも語った。

寿は司と二人だけになると、依頼したものを持ってきたか尋ねた。司が所沢の下宿から持ち出した亜砒酸の包みを渡すと寿は「これだけですか」という。

司が首をかしげると、寿は右手を喉に擬して突く仕草をする。

寿は声を落として「私は武人として立派に切腹して死にたいと思います。せめて短刀でもと思いますが無理です。しかし見舞いにいただいたものがたくさんありますから果物ナイフならあっても不思議はないと思います」

翌朝早く、道玄坂の刃物屋が開店するのを待ちかね折り畳み式の果物ナイフを購入した司は午前十時過ぎに熱海に着いた。どうしても寿には会う気になれぬ司は姉の心つくしの下着数枚の中に果物ナイフを忍ばせた風呂敷包みを瀬戸医院長に手渡した。

「あとはよろしくお願いします」「たしかに」お互いの胸中にすべてを託して司は病院を去った。駅に向かう坂道で見上げる病室は浅春の柔らかい日差しを受けて平和に静まっていた。

東京に帰った司はその足で松坂屋に向かった。

すでに三時を過ぎていた。いまごろはもう自決を決行しているに違いない。

四時のラジオニュースを聞いたが、それらしいニュースはなかった。

帰宅すると家には近親の人が集まっていた。

六時のニュースでも寿の自決の報道はなかった。

体力の回復が不十分で果物ナイフも切れなかったのではないか、不安が覆った。

九時のニュースでも何も言わなかった。

夜十一時過ぎに横浜の叔父が玄関を開けて飛び込んできた。

熱海の病院に様子を見に行ったが、すでに寿は自決を決行した後で会うことは許されなかった。午後三時半ごろ自決を企て目下手当て中であるとのことだった。

不眠の一夜を明かした司は夜明けを待ちきれず「様子知らせ」と医院長に電報を打った。ほとんど折り返しに「河野大尉、今朝六時四十分死去す、来られよ」との官報が配達された。

義兄と司はただちに熱海に急行した。

ラジオが寿の死を報じたのは午後一時だった。

 

六日午後一時戒厳司令部発表 第八号

湯河原にて牧野伯襲撃に際し負傷し、東京第一衛戍病院熱海分院に入院中の叛乱軍幹部元航空兵大尉河野寿は、昨五日自殺を図りて重態に陥り、本六日午前六時四十分遂に死亡せり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義は末路に向かう

資本の果てしなき増殖のため、

人工的なバブル創出を繰り返してきた資本主義が近ごろ注力しているのは、惨事便乗型資本主義(略奪による蓄積と新自由主義的経済政策の押し付け)のようです。その最終版ともいえるのが脱炭素化に向けた再生可能燃料へのエネルギーシフトという新たなバブル(グリーンバブル)の熾りだと思います。なぜなら、グリーンバブルはcommon(人類共有の富)を取り戻す世界的な反成長運動を本質とするものですから、資本主義の再生どころか自殺行為となりかねないからです。
惨事便乗型資本主義の巧妙なシナリオは、第二次大戦の終わりまでに切迫する社会革命への恐れがもはや現実的でなくなると核兵器による大量虐殺の亡霊を直ちに出現させ、そしてそれが現実的でなくなると「地球温暖化」を発見したのです。資本主義という化け物は不断に自分自身の消滅の手段を想像するか、あるいは実際に生み出す必要性つまりバブルが不可欠なのです。

 

化け物としての資本主義は人間社会の共通的富=共通財産=common(*)を物理的形態と社会的形態の両方から驚くべき勢いで破壊してきました。
 (*)二つのcommon
   ・物理的形態(物質世界)とは、空気、水など自然の賜物
   ・社会的形態(社会的生産の諸要素)とは、知識、言語、情報など社会を構成し発展させる諸元

その結果、世界中でcommonの私有化と専有化が進んでいます。無限の富の追求=利益至上主義が民主主義と資本主義のハネムーンに始まった国民国家至福の時代を終わらせ今や国民の分断と民主主義国家の崩壊を加速させているのです。
資本主義とは社会主義と同様にcommonを排除する所有制度であることが明白となったいま、

経済成長が幸福をもたらす社会的進化であり美徳でさえあるという成長神話は完全に終焉しました。
 
コモンを取り戻す=「脱成長コミュニズム」(斎藤幸平「人新生の資本論」)言うなれば意図せざる「打倒資本主義」は世界の趨勢になっていくものと思います。
 

 

 

 

永久被占領国、日本

新型コロナの感染防止対策で失敗してきた日本政府ですが、今回は異例ともいえる迅速さで日本政府はオミクロン株感染防止の手段を講じ徹底した水際対策を実施してきました。そのためか欧米各国に比し感染者数は微少に抑えられ見事な手際だと感心していました。しかしながら年明けとともに感染者数が急増し今や感染第六波という状況で沖縄、山口、広島県には蔓延防止策が講じられると報道されました。政府主導による全国民参加の一億総水際作戦でした。奏功しなかったことは一国民としてまことに残念です。

 

この水際作戦が失敗した一つの要因は在日米軍基地にあると思われます。なぜなら、日本国における米軍の地位を取り決めた「日米地位協定」ですが、これは敗戦後のGHQ占領体制をそのまま継承したようなものだからです。
この日米地位協定第9条によると、アメリカ兵だけでなく軍属に加えてアメリカ兵の家族も含めアメリカ軍関係者は日本入国時の検疫が免除されることになっています。またアメリカ軍関係者はチャーター便でアメリカ本国や海外の基地から直接、在日米軍基地に入ることができます。つまりノー・ビザで入国できるのです。つまり在日米軍に対して水際対策は何ら意味のないものだったのです。

 

米軍基地では日本人が基地従業員として日本のルールに基づきマスクをして働いています。
ところがその横でアメリカ兵はマスク無しで自由に歩き回っているのです。

 

米軍基地で働く日本人はこんな状況に耐え被占領的状態を黙認していたわけではありません。


日米地位協定」の著者である山本 章子さん(琉球大学人文社会学国際法政学科准教授)によると「日本人基地従業員の組合である全駐労沖縄は、従業員の安全のために基地内でアメリカ兵がマスクを着用するよう繰り返し団交している。全駐労沖縄の要請は沖縄防衛局にも上がっていた」として「もし、防衛省が同じ要請を在日アメリカ軍司令部と国防総省に行っていれば、感染状況がここまで悪化することは防げたのではないか。」と述べています。
(筆者注:国土の0.7%に過ぎない沖縄には在日米軍基地の70%が駐留しています)

 

日本の報道機関も基地の外でマスクをせず出歩くアメリカ兵の映像を流していました。

 

日米地位協定の所管は外務省ですが、いったい日本政府は何をしていたのでしょうか。「在日○○」と聞いただけで気色ばむ人々が「在日米軍」に異議を唱えないのはなぜでしょうか。

 

敗戦の焼け跡に天使の如く現れ至福の時をもたらしたアメリカ兵、GHQ占領体制が未だ日本人の心に残照を残しているのでしょうか。

 

戦後の被占領体制をそのまま引きずった日米地位協定のような協定は、同じ敗戦国のドイツやイタリアの駐留米軍には認められていないと聞きます。

ところが日本では被占領的状況の是正努力をするどころか、安倍元首相は大統領にもなっていないトランプ氏の下に馳せ参じる醜態を演じて日本の立ち位置=subject to Stars and Stripes =「星条旗への忠誠」を世界に表明したのです。

 

それ以降の日本は為政者はじめ政官エリートによるトランプ直伝フェイクニュースとポストトウルースの花盛りです。もとより虚妄に過ぎぬ日本民主主義(投票日だけの主権在民と多数派の専横を担保するだけの代表民主制度)は崩壊し、本当のボスはアメリカであることを認識した官僚体制は官の道義を放棄し日本は完全に星条旗の国体となってしまいました。

 

岸田首相のオミクロン水際作戦も所詮は宗主国アメリカ主導のフェイクニュースの類いだったのかも知れません。
それよりも日米地位協定は国民に公表されているものですから、騙されたと勝手に思う国民が無知なだけだというべきかも知れません。

 

いずれにせよ米軍基地の問題は氷山の一角です。首都東京の制空権さえ自由にできない我が国の置かれた永久被占領体制、それを看過してきた(権力に飼い慣らされ思考停止の居心地よさに安住してきた)国民に問題の本質があると思います。